感想文 少年社中『MAPS』

6/2昼、6/10夜の2回観ました。いつの話だ。書くの遅い。ごめんなさい。

 

公式HP↓

www.shachu.com

 

 テーマ分かりやすい、情報量多いけど何をしているのかはきちんと整理されていて分かる、膨らんだ話が最後に向かって収斂していく気持ちよさ、なのに「…どこか理解できてない気がする」謎の観劇でした。
情報が多すぎて、脳内で整理ついてないのかもしれない。頭よくなりたい。

 

 

HPのあらすじ、なにか違う気がする。
もしくは私の記憶がおかしいのかも。台本は買っていません。


とりあえず、私の主観によるMAPSのあらすじは…


『これは、3枚の地図をめぐる物語』
一枚目の地図を持つのは「冒険家」
前にも一緒に楽園を目指した仲間たちを集めて、楽園を目指す冒険に出る。
そこへ現れる前の船長、ライア。前の航海で仲間を捨てて船を下りた彼に対する仲間たちの態度は厳しい。
冒険家はライアも一緒に冒険したい、と皆を説得する。
「実は、楽園に辿り着いたんだ。今度は皆と一緒に行きたい」ライアの告白でまた皆で冒険の旅をすることになった。
でも、ライアの持ってきた楽園の地図は、実は昔冒険家が夢想して書いた偽物の地図。
冒険家とライアはそれを皆に隠して旅を続ける。
激しい嵐の晩、死ぬと思ったライアは仲間たちに地図が偽物であることを告白してしまう。
だが嵐は止んだ。
残ったのは…壊れた船と絶望。


二枚目の地図を持つのは「伊能忠敬
老いた彼のもとへ、ある日昔家を出ていった妻が帰ってくる。「貴方は本当はしたい事があるんじゃないですか?」
日ノ本の地図をつくりたい。妻と共に夢を叶える為に旅立つ。
そこへ息子が忠敬を連れ戻そうと追いかけてきた。「お母さんは死んだじゃありませんか」
妻の死を思い出した忠敬。しかし日ノ本の地図を作る為の旅を止めるつもりはなかった。そんな父に、息子は問う。
「お父さんは、なぜ地図を作りたいんです?」
その訳とは…


三枚目の地図を持つのは「漫画家」
既に連載を複数抱えている売れっ子漫画家。新連載のオファーを受け、伊能忠敬の話を書きたい!と思いつく。彼の脳内に溢れてくるイメージ。だが伊能忠敬の話はボツになってしまう。
新しく、楽園を目指す冒険家の話が漫画家の脳内を駆け巡る。
(=冒険家の話と伊能忠敬の話は、漫画家の想像として絡んでくる)
自分がおかしいのではないかと思った漫画家は、カウンセラーと定期的に会い、自分と向き合おうとする。
「感情が、フラットなんです」
そこへある日、ファンと名乗る少女がアシスタント希望でやってくる。
アシスタント希望なら作品を見せてくれ、と言った漫画家に、彼女が差し出したのは、地図だった。


「漫画家」の話がメイン。漫画家の創造した世界が「冒険家」と「伊能忠敬」の世界。

 


漫画家=冒険家=伊能忠敬という構成で、

冒険家は夢見た世界=楽園へ漕ぎだそうとする者であり、
漫画家は楽園にいる者であり、
伊能忠敬は楽園にいた者であり、かつ新しい夢へと漕ぎだそうとする者でもある。


漫画家のカウンセラーが「喜怒哀楽の喜と楽は似ているから、喜を抜いて恐れを入れる」と提案
「怒哀楽は現在に対する感情だが、恐れは未来に対する感情」という提示

この説明からすると、
快楽至上主義者/パーフェクトグラフィティケーション は“楽”
永遠なる怖れ/インフィニティアフリード は“恐”
哀しみの奴隷/ザ・スレイブサッドネス は“哀”
を表しているのだと思う。


ここからすると、冒険家のところにまずパーフェクトグラフィティケーションが現れ、不安要素が出てきたところ(ライアの持つ楽園の地図が偽物だと知る)でインフィニティアフリードが出てくる、というのは夢を追う人の心理としてはとてもよくあるのではないか。

最初は希望に満ちていて、往々にして絶対に成せるという根拠のない思い込み(楽天的な希望)が心を支配している。けれど一度「上手くいかないのではないか」という恐れに取りつかれると「夢を諦める」方向へと向かってしまうこともある。

この葛藤がパーフェクトグラフィティケーションとインフィニティアフリードとの闘いという形で表されていて、感情の可視化が面白い。

 

伊能の下にはザ・スレイブサッドネスが現れる。はじめ彼女を亡くなった妻の哀しみだと思っていたが、実は彼女は妻を亡くした伊能自身の哀しみ。

だから妻がいる時は出てこない。妻がいれば哀しくないから。

いちばん始めの登場場面で、伊能は夢を思い出せない。妻が促して、「そうだった」と二人で旅立つ。伊能の「日本地図をつくる」という夢は妻と共にあったから、妻が死んで、その哀しみを忘れるために「妻は他の男をつくって出て行った」という虚構をつくりあげたときに、一緒に忘れてしまったのだろうと思った。

だから、妻との大事な思い出を思い出したときに、哀しみを乗り越えて新しい夢に向かって進めるようになった。

 


『楽園はそれぞれ違う』
漫画家の楽園は、一見有名漫画家になること、のように見えるけれど、おそらく「漫画で食べていけるようになること=プロの漫画家になること」

同じようで微妙に違うように思う。

伊能忠敬の楽園は、「妻と共にあること」
そして、新しい夢は日ノ本の国の地図を作ること。だけど、それも妻が与えてくれたもの。
これは、楽園は次の楽園への旅の始まり、ということを示しているのかもしれない。

冒険家の楽園は、「皆と冒険すること」
一人では意味がなくて、皆と。皆とでないと意味がない。
(この「皆と」の部分が、観客に「毛利さんの話ではないのか」と印象付けるキーでもあると思う)

 

『みんながいたから、僕は僕になれた』
自分は何者なのか。
自分の価値は自分で決められるけど、社会での位置づけは他の人との関わりで決まる。

この言葉は、場面的にもみんながいたからやってこられた、という意味だと思うけれど、それだけではなくて、自分の価値を認めてくれる他者がいたからこそ、という意味にも取れる。

冒険家=漫画家なので、プロであろうとすれば特に、評価はあくまで他者が決めるもの。「みんな」は仲間のことだけではなく、漫画家の作品を評価してくれる読者のことでもあるのではないかと思った。

 


『あなたのファンです』
これは「fan」と「fun」で、言葉遊びでもあり劇中のミスリードでもある。

「喜び」と「怒り」が同じであるということの意味が2回の観劇では分からなかった。
「怒り」の名前がマイレボリューションで“自分への”怒りだから?転化すると喜び/楽しさに変わるのだろうか…
この作品で表される喜怒哀楽+恐は自分の中での葛藤であって、それは外へ向けて発散される感情とは少し違うのかもしれない。
(fun、翻訳としては「楽しい」じゃないかなと思うが、パーフェクトグラフィティケーションがいるので「喜び」と判じた)

漫画家の感情である「fun」、最後にアシスタント希望で訪れる「fan」
言葉遊びだけど、もし、クリエイターにとって「fan」が「fun」をもたらす存在になれるなら、いちfanとしてはすごく嬉しいなと思う。

 


夢見た世界で成功すること。それは嬉しいけれど、悲しいし、怒りもわいてくるし、でも楽しい。
いつかまた何もかも投げ出して逃げたくなるときがくる。
それでもこの楽園を選ぶ。
これが漫画家が最後の場面で自分の感情たちに対する宣言だった。
楽園を目指す物語の終着点。自己肯定の物語だと思う。


最後まで漫画家の名前は分からなくて、「先生」としか呼ばれていない。
最後の場面で名前を呼ぶけれど、その名前は聞こえないように演出されている。
漫画家≒毛利さん、という意見多いし、それはそういった面もあると思うけれど、私が観て受けた印象はそんなに単純ではなくて。
クリエイターとして成功した人や成功を夢見る人、クリエイターだけではなくて、どんな夢であれ、夢を叶えた人/叶えようとしている人すべてに当てはまるのではないかと思う。
だから
「これは あなたの物語」
なのだ。

感想文 舞台「野球」飛行機雲のホームラン 7/29

おもしろかったー!

homerun-contrail.com

 

 アフタートークある回でしたが、所用がありまして終演後すぐ退席させて頂きました。
参加できず申し訳なかったです…

 

公式HPイントロダクションより

1944年―
戦況が深刻化し、敵国の競技である野球は弾圧され甲子園は中止されていた。
甲子園への夢を捨てきれず予科練に入隊した少年たちは、
「最後の一日」に、出身校同士で、紅白戦を行う―


甲子園優勝候補と呼ばれた強豪・伏ヶ丘商業学校。
実力は未知だが有力と思われる会沢商業学校。

野球への憧れ、強い仲間への憧れ―
「憧れ」を通して、人が生きていく力、「行きたい」という希望を描く。

 

 

舞台進行のベースは野球の試合(1回から9回まで、時系列)
その間に、その試合が開催されるまでの過去のエピソードが挿入される。
時間と場面が頻繁に入れ替わるので、分かりにくい、と感じる人もいるかも?
ただ、私は普通にストーリーを追えたので、そこまで難しくはないかと。

 

球場より舞台は狭いから(サンシャインの舞台幅はピッチャーマウンドからバッターボックスまでの距離よりも短い)、野球の試合をどう表現するのか、というのがひとつの見どころになっていると思います。

 

多くの場面は、投手・捕手・打者の場面
野球中継でも打たなければ大体この3者しか画面に映らないですから、そうなりますよね。
ただ、野球中継では投手の背中から打者と捕手を捉えているのに対し、舞台なのでそこの表現が豊かになっていて、見ていて楽しかったです。
テレビ中継と同じような構図のときもありましたし、投手と捕手・打者が向き合う形ではあるけれど、角度がついていたり。
打者と捕手が舞台手前(客席に近い方)に立ち、投手が奥に立っていて、三者とも客席側を向いていたり。

 

すごく好きだなと思ったのは、ストライクゾーンが照明で表現されているところ。
ボールとストライクが分かりやすい。
…もしかしてあれはホームベースなのかな、得点するときにはホームベースになっているけれども…打者の立ち位置的にストライクゾーンだと思ってました。

 

打者が打つと、ファウルか本塁打以外は野手の場面になるので、投手・捕手・打者がさっと捌けてボールが飛んだ場所にいる野手が出てきます。内野のことも外野のこともある。
ダブルプレーで下手でショート→上手でセカンド→奥側でファーストと次々出て来てはボールを取って投げて袖に捌ける、というのはスピード感もあって好きです。
なお、舞台は八百屋になっているので、役者さんはかなり体力使うと思います。最近八百屋多いですね。見やすいので好きです。

 

2回ほど、客席通路を使って塁間を表現していました、下手が一塁、中央やや上手が二塁、上手やや客席寄りが三塁。
最初何やってるのか分からなくて、打者が通路走ってきてやっと分かった。ベンチ応援か何かかと思っていました。表現って難しい。

 

基本的には実際のボールは使ってなくてモーションと効果音での表現なんだけど、ボールを受けたキャッチャーミットから粉塵があがるところがとてもいいです。
あと、たまに実際のボール使うところでは、役者が捕り損ねる場合もあるので、ボール使う場合は袖から舞台へ投げられて、袖に投げる。
私が観たとき、ボール捕らなきゃならない場面で捕れなくて、そのままボールが袖に消えていったことがありました。

 

敵国語につき、全部日本語に置き換えてるけど、審判のフォームは同じなので野球を分かっていれば何となくわかる。
選手が「それぞれ9人」なのに8人しかいないの、ちょっと気になるけど、大人の事情につき、ですね。

 


野球の演出のことばっかり書いてしまった…(笑)

 


最後の穂積の特攻シーンは入れない方が良かったんじゃないかなあ。すごく蛇足感がある。死ぬ場面が明確に描かれない方が、残された唐澤の、そして観客の悲哀も増すのではないか、とか。ちょっと思いました。

 

言葉遣いがちょくちょく現代男子高校生っぽいのは、わざとなのか当時もそうだったのか…「彼女ほしい」とか。
「トンネル~~~!」は舞台上でのネタ(笑わせるところ)なので気にならないです。

 


キャラクターはそれぞれ魅力的だけど、会沢の方がメインなだけあって時間割かれてるかな?
私がいいなと思ったのは早崎。全く格好よくないけど、だからこそいい。最初は現実に打ちのめされるけど(早々都合よく神様助けたりしない)、菊池先生のエピソードと絡められた日には…!
号泣です。
この、菊池先生が私のお気に入り。かっわいいの!会沢商業の監督だけど、野球はさっぱり分からない門外漢。
渾名は「父、帰る」または「父」←縮めちゃうの男子っぽさある。
前半あんなに可愛いマスコットなのに、後半のキツさ…つらい。


「誰も悪くない」みたいな描き方で、たぶん戦争という非常時における非人格性というか、時代が悪い、という感じでしたね。
ちょっとご都合主義的かなあとは思いました。
特に唐澤が兵役免除されるところ。

キャラクターやエピソードも若干「ありがち」な感じはありましたが、丁寧に描かれていたし、嫌だなとか、そういうことはありませんでした。

 


最後に、ちょっと野暮かなあと思いつつ、ただどうしても気になってしまうので…史実との齟齬について。
まず、どうやら劇中では陸軍ぽい?感じなのですが、『予科練』は正式名称『海軍飛行予科練習部』で海軍なんですよね。
「海軍に志願した、飛ばなくて済むから」というセリフがあったので、やっぱり陸軍。(大日本帝国に空軍はない)
それから、どうやら“特攻前の”最後の一日っぽいのだけど、予科練は志願だったようです。赤紙貰ったら予科練生ではない。
特攻作戦が始まったのは1944年10月だし、予科練生が駆り出された練習機での特攻は1945年に入ってから。回天での特攻についても言及されていたのだけれど、こちらも1945年5月からの投入。
甲子園が空襲被害にあったのは1945年8月。
なので…1944年ではなく、1945年なのでは…?細かいこと言うようだけども、そういうところのリアリティは欲しいと思ってしまう。
イントロダクションUPした時はまだ台本上がってなかったのかな、西田さん遅筆ですもんね…

 

涙出るし鼻水でるし、嗚咽が止められないところもあって(声を出さないように頑張ったら身体が震えてしまった)本当に周りのお客様にはご迷惑をおかけしました。

目当ての安西さんと内藤さんは期待を裏切らない良いお芝居をなさっていました!日程厳しかったけど、行って良かった。

舞台『半神』7/16夜

舞台『半神』を観てきました

www.hanshin-stage.jp


野田さんの脚本作品観るの初めて、中屋敷さんの演出作品は朗読劇しか観たことないので、私の感じた「演劇らしさ」が脚本によるのか、演出によるのか、役者によるのか分からない。
おそらくはその全部なのだと思うけれど。

 

中盤まで本筋が全く進まないので、これは原作は絶対短編だろうと思っていたら、本当に短編だった模様(16頁らしい)
全体の1/3位でしか本筋をやっていないように感じました。
つまり「遊び」の部分が多くて、そこは本筋と無関係とは言わないけれど、ちょっと多すぎると感じました。
ここは単に好みの問題です、会場では割とウケていたし、私も面白いと感じました。
でも多い…(笑)

 

一回しか観劇していないので、正直「んん、ちょっと掴み切れてないかも、もう一回!」という感じなのですが、最近そういう作品ばかりな気がするので、単に私の頭の処理能力がガタ落ちしてるのかも知れません。

 

これは舞台に関する感想ではないのだけれど…4回も5回もカテコ呼ぶなら、スタオベしようよ。私は自分からはスタオベするほどではないけど、周りがするならしよう、という感じでした、みんなそうだったのかな?私の前列に座ってたお客さんは立つ準備をしていたけれど、立たなかったから。

それにしては拍手が長いというか、何度も役者呼びすぎ…

客電着いたら立つタイミングだと思ってたら誰も立たない。そこで立たないのはまだいいのだけど、その後終演アナウンス後も拍手して呼び出したのに、そこでも立たない。そこは立とうよ!なんで立たないのに呼び出した???

東京楽だったので、カテコでコメントあると思ったのかな?でも終演アナウンスあったらもう無いよ…諦めよう…?

ちょっと役者さんが可哀想だなと思いました(個人の感想です)

 

以下ネタバレ含みます。

家庭教師=老数学者である部分が、最終的にあまり生きてこなかったように思いました。設定自体は好きなのですが、そこをイコールにする意味がよく分からなかった。多分意味はあるので、もっと分かりやすかったらよかった。

でも意味が分かったら、分かりやすくないのが良いと思うかも知れない。ここは意味が分かってないので、どうしようもないところ。

 

舞台装置好きな感じでした、シンプルで、でも工夫があって。ただ八百屋+壁の出っ張り(人が一人立てるくらいのスペースのものがたくさん取り付けられてる)を利用しているので、役者は大変かも。

あと、舞台床面から底上げされていたので、前方列はおそらく首が痛くなるのではないかと思いました。

 

スフィンクスの謎解きの解(螺旋方程式の解)が理解しきれなかった。1/2(シュラ)+1/2(マリア)=2/4(シャム双生児)なのは分かるのだけど…

足しても1(一人の人間)になれない、2/4なのに割り切れない(約分できない)、1を作り出すためには…?ということなのかな。

やはり1回だと理解できない。集中力が足りなかったのかも、思い出せないところもあるし…次に野田作品観るときはコンディション整えて挑みたい。

 

 

期待すると己のハードルが上がってしまい、結果躓きが大きくなる

舞台刀剣乱舞悲伝に期待しすぎて、しんどさが倍増しました、という話です。

内容には殆ど触れていませんがネタバレ0ではないです。そして全て個人の意見です。

また不満だらけですので、悲伝がすごく好きだという方はすぐに画面を閉じてください。

言いたいことはタイトル通り、期待しすぎるの良くない。です。

 

キャストの皆様は全員素晴らしかったです。最後まで、全員怪我無く、悲伝という物語を紡いでいってほしいです。

キャストもスタッフも頑張っているのは分かっているので、こんなことは本当は言うべきではないのは重々承知しているのですが、吐き出さないと自分の心がくるしい。

見苦しい真似をして申し訳ないと思っています。

 

 

 

まず、初日まで悲伝HPのメインビジュアルがずっと三日月のみだったので、もっと三日月がメインになると思っていたんです。

しかも集大成というのだから、これまで思わせぶりに撒いてきた伏線が回収されるのだろうと思いました。

 

そしてジョ伝が私には大変面白いと思える作品でした。1幕で提示された謎が2幕で綺麗に解けて、観劇したときはうわぁ!うわぁ!って大興奮しました。

張り巡らされた伏線が、終幕に向けて見事に回収されていく。観客の多くがその様子に快感を覚えたと思います(個人の感想です)。

なので、ジョ伝で感じたそういったモノを悲伝にも期待していました。

 

更にこれは本当に個人的なものですが、私は三日月宗近役の鈴木拡樹さんのファンをやっておりまして、髑髏城で演技力があがったと明確に感じて、これで三日月を演じたらそれは素晴らしいものになるだろう!と思っていました。

 

 

 

悲伝に私が求めていたものは、

①ジョ伝と同じくらい自分が面白いと思えるストーリーであること

②三日月の演技が堪能できること

この2つです。どちらも満たされなかった。

 

①については、面白くない訳ではないのだけど、これまでの伏線を回収することによって新たな伏線が大量に撒かれ、新たな伏線は全く回収されなかったので、ジョ伝のような面白さは感じられませんでした。

パンフレットで末満さんは悲伝は「読点」と言っていますし、鈴木さんも「切符取り」と言っていますから、集大成ではあっても結末ではないのでしょう。

だからこそ謎を残し、伏線を回収しないまま終わらせたのだと思います。

でも、多くの人が「結末」であると予想する「集大成」という言葉を使うのは、嘘ではないけれど質の悪いミスリードに感じます。

 

②については、三日月の出番が少なかったのでどうしようもない。白くなって出てくるまで、芝居の見せ場がないのだもの。殺陣以外の見せ場がそこ以外ほぼ無い。

鈴木さんの演技自体は素晴らしかったです(個人の意見です)。

 

 

そして、期待が裏切られたことによる落胆(=悲しみ)が不満(≒怒り)に繋がってしまいました。勝手に期待したくせに。

 

 

今回は刀ステだったけど、他の舞台でも期待した分、落胆が大きくなってしまったことは何度もあったので、期待しすぎるのは良くない、と知っていたのに。

分かっていたのに、それでも楽しみにしてしまったんです。それだけのパワーをジョ伝は持っていました。(少なくとも私にとっては)

やっちまったな!という思いでいっぱいです。期待しすぎてしまった、という思いに支配されてしまって、本当に辛い。

ジョ伝があんなに面白い作品でなかったら、こんなに辛い思いはしなくて済んだのに。

 

 

感想文『修羅天魔』5/27

※全て個人の感想です

1回しか観ていないので、きっと読み取れていない部分も多いと思います。
…よくよく考えたら、普通の人は大体一回しか観ないですね…
今までの髑髏城観劇は月上下のみです。月発表された時に、ワカのゲキシネとか風とか観た方がいい?と友人に聞いたら全力で止められました。WOWWOWは未加入です。

 

1桁台の列のドセンでしたやったー!(推しがいない方が良席率高い)
しかも視界良好でした。最高
前日が新国立だったので劇場のホスピタリティの差に涙が…(笑)

 


楽しかったです!
天海さんを見てみたくてチケットを取ったので、すごく満足しました。
観客を引き込むパワーがすごい。流石でした。美しいしかっこいいし、細い~!
美しい!主役ドーン!!!って感じのオーラ。


極楽の衣装は、最初のとステンドグラスみたいな模様が縦ラインで入ってるやつが好きです。
走馬灯みたいに巡るところの天海さんの表情にぐっときました。
そして「浮世の義理も昔の縁も三途の川に捨之介!」きゃーカッコイイー!
懐が大きい方なんだろうなーと思いました。人となり全く知らないけど、何か伝わってくるというか。
あ、あと天海さんてカテコすっごく丁寧ですね!

 

ミュージカル髑髏党楽しすぎて!
ダンスまでちゃんとミュージカル調で本当に楽しい。好きです。
幹部3人共楽しそうに生きてていいな。
特に猛突は歌う以外の仕事してない気がします。自由ですね。
天魔王はあんなに生きるのつまらなそうなのに(^^;


天魔王クールで格好良かったです。信長より天魔王の方が数倍格好いいと感じました。まあ天魔王の方が出番長いしね。
第一声で、かっこよ~~~~~!ってなりました。
ただ、生きるのに倦んでいるように思いました。
影が厭で信長殺して表に出てきたけど、思ったより愉しくなかったのかな…天下も女も口で言うほど執着無さそうな…
信長が陽・活・暖って感じで、天魔王が陰・醒・冷って感じでしょうか。対比して役を作っていたように感じました。
色でいうと、信長が赤系で天魔王が青系な感じ。

顔(ガワ)は瓜二つだが中身は真逆、という造形でしたので、極楽が信長は好きだが天魔王は嫌い(信長を殺したから。信長生前は特になにも意識していなさそう)というのが伝わりやすい。
極楽の中では信長と天魔王は完全に分離していて、腕の傷を見せられるまで揺るぎもしない。
腕の傷と口車で揺らいでしまうのは、極楽も決して無敵のヒーローではなく、一人の人間であるように感じられて、私は好きです。
最期は逆に罠に嵌めるというか、天魔王相手の駆け引きもできる強い女性ではあるけれど。


天魔王、夢のことはどうでもいいというよりは嫌い寄りでは?ウザいのかな。ちょっと分かる(酷い)
他の髑髏党幹部衆はどうでもよさそう。

 

噂の夢ちゃん。
顔ちっさ!脚なっが!
夢三郎より夢虎の衣装の方がいいな。
長着姿じゃスタイル良いの分からないから。夢三郎の衣装の中では、極楽太夫の顔見世で着ていた衣装が好きです。カテコでも着ているやつ。
あんなごちゃごちゃ煩い模様を着こなすなんて、流石としか言いようがない。
歌は歌わないとダメだったのかな。太夫の顔見世は必ず歌うことになってるのでしょうか。でも苦手でも歌わなきゃいけないこともありますよね…お疲れさまです。
一幕、蘭兵衛(蘭丸)属性(無界主、裏切り、無界屋襲撃)かと思いきや二幕観たら完全に人の男(天魔王ではない)属性でした。なお月しか観ていない私の中の人の男は「愛されなかった子供」です。上弦も下弦も。


正直有能さはあまり感じられなかったので、その辺りが天魔王には物足りなかったのかもしれない。忠誠心より能力が欲しかったのかな。策略に自信ありそうだったし、自分の子供なのにこの程度か、と思っていたのかも。
夢は廓の主としては有能だし、言われた命をきちんと熟すこともできるけど、自分で考えて計略を巡らすのは不得意そう。
自分で決めたように見せてるけど、天魔王に言わされてる感がある。
死ぬ場面は下弦生駒ちゃん思い出しました。己に向けられる非道さすら憧憬。救われない…
兵庫が「自分の夢に食われてどうする」と言っていたけど(聞き間違いでしたらごめんなさい)、天魔王の夢に食われてるのであって、夢虎の夢じゃない。

夢虎の夢はなんだったろう。やっぱり天魔王にちゃんと愛されることかな。

 

髑髏城において「蘭」とは、信長に愛された者につく名なのかなと思いました。色なのか能なのかは其々だけど。

 

夢ちゃんは殺陣多くて大変そうだと思いました。がんばれキョウリュウレッド!

 

 

清十郎さん、作品一美味しい役どころ。
めっちゃ格好いい。
極楽がピンチになると颯爽と現れて助けていく…しかも無敵って程は強くない(十分強いけど)
しかも極楽の意思をきちんと尊重してくれる。
あんなの惚れるに決まってる。
兵庫、多分勝ち目ない( ;∀;)

 

衣装のせいか、どうにも風車の弥七を思い出してしまいます。忍びだし。

 


兵庫さーん!あの後、新生無界の里で気性のいいお嫁さん貰って団子売りつつ幸せに暮らしてほしい。子供は6人くらい。貧乏だけど幸せ家族でお願いしたい。
従来の髑髏城で、兵庫が無界襲撃で斃れた荒武者隊に話しかけて、そこを極楽が「しっかりしなさい!」って立ち直らせる場面好きだったから、無くなってしまって残念。
兵庫は本当に格好いいと思うんですけど、極楽とくっつかないと存在意義が…その…

 

髑髏城に乗り込んだときに、研がれすぎて短くなった刀ちゃんと拾って帰ってたけど、もう使えなくない?あ、拵えとか鞘は再利用できるか…
でもまた刀を持つのかな?もう鎌でいいんじゃないかな。戻り鎌強かったし。

 

 

沙霧ちゃん可愛い!極楽ママと清十郎パパに教育受けて最高の赤針斎になって熊木を再興してください。
新生無界の里の裏の顔は熊木衆。良くないですか?
衣装可愛いけど、ぱんつ見えそうでハラハラする。

 

 

狸穴の衣装が好きです。葵の柄。それにしても食えない狸でした。
そして初見の観客に「え、どっち?」と思わせる絶妙な胡散臭さ。
正直なのか、真っ赤な嘘なのか。

 

狸穴の胡散臭さが極楽が揺れる根拠にもなるから、胡散臭いの大事。影武者死んでも顔色変えずに、天魔王に「影なら影としての役目を果たしておれば良い」とか言っちゃうの、武士とはそもそも非道である、という感じがします。本当、「お前らみんな一緒だ!」です。
およしの死骸に眼帯握らせたからって許されないぞ!

 

 


三五さん。髪型と衣装でどうにも猿(秀吉)感が。ゲームとかアニメでデフォルメされるとあんな感じのキャラクターじゃないですか秀吉。

夢に裏切りの美学について説教するときに、ちょっと金八先生入っていたような…?
新生無界の里にはいつまでいるかな?裏切って出て行っては戻ってくる、を繰り返しそうな気はする。

 


ぜん三さん。兄さ、お米は大事だけども盗みはいけないよ。
しかし、前世は家康殿ですよね。役者さんすごい。

 

  
カンテツ…何?あのカワイイ生き物…好き…。
タナカをずっと研いでいてください。
カワイイが過ぎてカワイイ以外の感想がない。本当に可愛い。ずっと見ていたいです。
一番のお気に入り。こんな感想だけど。
 

 

髑髏城ボーナストラックそれが修羅天魔。
ラストで7人の頭上に浮かぶ文字が、修羅天魔→髑髏城の七人に変わるの、胸熱です。

 

7人の「これから」が見えるラスト、いいですね。
髑髏城の七人だと、7人が別れていくところで終わりで、少しの寂しさがありました。
それもまた余韻として良いなとも思うので、どちらの良さもアリです。
でも、これはボーナストラックだから(笑)
いつもと違う方がいいなと思います。それに、みんな一緒って楽しいですよね。
個性もできることも違う人間の集まりだから、ぶつかり合いながらもきっと素晴らしい無界の里を作り上げるんだろうなと思います。

 

まあ天海極楽太夫がいれば安泰ですよね!…なんだろうこの安心感……天海さんてすごいなあ。

 

 

(感想文じゃない)展開を勝手に考える

悲伝の初日前に「わたしがかんがえた刀ステの展開」を書いておいてみようかと。
それで初日明けたら全然違った(笑)ってネタにします。


外伝(小田原城公演)で永禄の調査に行こうとしたら間違って小田原に来てしまった、という導入。
足利義輝没年永禄8年(1565)永禄の変
ここが悲伝の舞台と思われます。
虚伝、義伝はゲーム内の戦場が舞台だったけれど、外伝、ジョ伝(恐らく悲伝も)の舞台はゲーム未実装。ステの独自性が高まってます。


刀ステ集大成、と銘打たれていますが、私は事の発端は「過去ではなく未来」であり、悲伝は「いつかくるやも知れぬ大きな試練」の話なのではないかと思っています。
※鉤括弧は義伝の三日月のセリフ

ジョ伝で、本丸時間軸は序→虚だけど、弥助が本能寺で刀剣男士をみているので、歴史は時間の流れそのままに虚(本能寺)→序(小田原)
ということは、刀剣男士が過去の歴史に介入することで歴史が変動、どころか本丸の過去=現在すら変わってしまう可能性が提示されました。

※本丸時間軸は悲伝PVより、序→虚→恕→外→義→如/助(→悲)
序、恕、如、助はいずれもジョ伝に含まれます。

噛み砕いて説明すると、
①虚伝で本能寺に介入、弥助が光秀を助ける刀剣男士を目撃
②弥助が刀剣男士に復讐するため、如水と組む
③弥助がつくも刀で刀剣男士と対立、山伏破壊→お守り復活
なので、虚伝の出来事が創成期の本丸(序伝)の出来事に影響を与えている。

例えばだけど、永禄の変で義輝を生かそうとする修正主義者と戦う。
義輝は死んだ(大きな歴史は守られた)けど、三日月宗近(義輝が所持していた刀本体)が折られて三日月不在になるとか。
←最初から三日月不在だと助伝でお守り渡せない、序伝で山伏破壊となってしまう。


現存しない刀も顕現しているけど、三日月は加州や今剣や薬研と違って〇〇が持ってた刀、といった逸話は無いし、現存する美しい刀であることが顕現の拠りどころな気がするので歴史のどこかで折られたら顕現できなさそうな気がするんです。

義伝での三日月のセリフ、「俺を本当に驚かせるのは骨が折れるぞ」は、これから起こることを知っているから、としたら。
まんばを諭す場面といい、ひぇえええ ってなる。
虚伝再演のときから三日月ループ説はあったけれど、これは本当にループしてるのではないかな、と思います。

義伝では三日月が「出来ることなら見守り続けたい」と言っていたので、その辺りも考えると、もう…

序~虚(初演)→大きな試練
三日月一周目

虚(再演)~如・助
三日月ループ

として、大きな試練が三日月の存在に関わると仮定すると、1周目試練を乗り越えられなくて三日月が消える(存在そのものが無くなるので折れるとも違う)
←ループした時点ではそもそも現在の三日月は消えてしまっているのでジョ伝のような二重存在にはならない。

と考察してみました。

ただこれだと他の男士が「三日月宗近」を知らないことになってしまうかな?
難しいな。
ついでに人間キャストが目立たなすぎだし、鵺の出番がないので、ナシです。


もしループしているとしたら、誰の意思でループしているのかも気になります。
今までは、三日月本人か審神者かなと思っていましたが、「山姥切と三日月の関係性」が注目ポイントらしいので、山姥切がループさせた、も有りかなぁと。

拡樹さんは構想聞かされてるだろうとは思っていたのですが、荒牧さんも聞かされていたとのこと、となると、ジョ伝のときに荒牧さんが「そちらの本丸」という表現をしていたこと、ちゃんと意図があってのことなのかな、と思えてきたり。
ジョ伝はOPナレが他とは違っていて「時計は先」で始まるし。
とすると、やっぱりどこかでルートが分岐しているのでは…?


あと、最初にループ説が出たときに、初演と再演が鏡合わせであること、明智と蘭丸のキャラが変わっていること、と共に三日月の声が変わっていること、も根拠に挙げられていたと記憶しています。
私は再演当時に観劇した際は、単に本人が演じやすいように変えただけだと思っていました。義伝も再演と同じトーンでしたし、ずっとそう思っていたんです。
でもジョ伝の顕現セリフ聞いたときに「えっ?!」って思いました。すごくゲームボイスに寄せていたから。
初演時は、いつも2.5で声がついているものを演じる時と同じような寄せ感でした。なので、虚伝初演と再演の三日月は同じではない、という予想をたてています。
まあ単にジョ伝は声だけだからいつもより寄せた、再演以降も単に演じやすくしただけ、という可能性もあるのですが、計算して変えていて欲しいなという私の願望です。


「鵺と呼ばれるもの」は一体どう絡んでくるんでしょうか?
最初は義輝に憑いているのかなと考えていたのですが、これ三日月を唆してるとかでも面白そうです。時間遡行軍とも刀剣男士とも別の思惑で動く…物の怪、かな?ヒトではなさそうですよね。
呼ばれる、で止められるとヒトともモノとも判断つかないので、推察楽しいです。


これだけループ前提で考察してて、全くループしてなかったら大笑いですね!
はやく幕が開いてほしいです。刀ステ悲伝すごく楽しい!って全力で言いたい。

感想文『私の頭の中の消しゴム 10th』

私の頭の中の消しゴム

5/2、5/3 15:00~
鈴木拡樹×増田有華

【すべて個人の感想です/ほぼ鈴木拡樹さんの感想/絶讚ではないです】

普段文章を書かないので、読みにくいところ多々あると思います。先にお詫び申し上げます。ごめんなさい


拡樹さんの浩介は2015年より身体表現が増えていた。
役者本人が年齢を重ねた分、浩介の年齢も上がっていたように思う。
演技も、技術的な部分が向上しているので、より深みのある表現になっていた。
座り方、姿勢、目線
台本を持っていない右手の動き(特にイライラしているとき)
台本のめくり方

身体表現が多くて朗読というより演劇みたい
と思ったらパンフレットで演出家が「演劇のように見せたい」と言っていた。
でも他のキャストはあんなに動いてないと思う。
(少なくとも2015、2016に観たキャストはそこまで動いていなかったように記憶している)
舞台役者の朗読だなと思いました。


薫役の増田有華さん、とてもお上手
実は2015年の廣瀬さんとのカップル観が大好きなのだけど(勝ち気な女性とヘタレ気味な男性の組合せが大好物)、拡樹さんの浩介はヘタレ要素あんまりないし、増田さんご自身が年齢と経験を重ねているので、全く違う薫で、違うカップル観でした。
病が進行してからの薫の演技、表情や動きに、自分を美しく見せようと取り繕う様子がなく、ただ薫として存在していてそれがすごく良かった。


2日は浩介が感情的であり、薫が抑えめの表現をしていて
3日は薫の熱量が高く、浩介は比較的抑えた表現が増えたように思う。

拡樹さんの調整力が発揮されたのか、増田さんが合わせてくれたのか、お互いが相手の出方をみて演技を変えた結果なのか、演出指示が出たのか…
とにかく二人してエモーション爆発!ということはなかった(多分そうなったら暑苦しいと思う)
勿論作品自体が持っている熱さ、役そのものが持っている情熱は常にあって、その上で、の話

2日は2015年の延長にある浩介のように感じた。
技術的にはかなり上手くなっているのだけれど、基本的な感情表現は同じように感じたから。
3日は初めの方から前日とは変えてきたなと思った、好き嫌いはあるとしてもとにかく上手いなと思える演技

2日は昂る感情をそのまま吐き出していて、盛り過ぎ注意!という感じ。
涙も鼻水も流していた。
涙の拭いかたが物凄く格好良かった、右手親指で両目一気に拭う

3日は昂る感情を抑えようとしていて、ただ抑えきれず溢れてしまうところもあり。
緩急があってとても好きな芝居だった。
技巧的にも3日の方が良かったと思う。
でも私の心が動いたのは2日の方、理由は恐らく拡樹さんが感情的だったから。

私の頭の中の消しゴム』という作品は、私のなかでは役者の違いを楽しむ作品であり、そのなかで役者の情動に引き摺られる形で心が動く。
つまり貰い泣きのような状態
脚本そのものには正直突っ込みどころが多くて共感できないし泣けない。
だから演技は3日の方が好みなのに2日の方が心が動いたのだと思う。
でもこれ難しくて、単に私のコンディションの問題かもしれない、観劇って本当に繊細で、ちょっとしたことで集中切れる。マスクもハンカチもなしで咳してた人やら荷物ガッシャン!と豪快に落としてた人やらいたし、2つ隣の席で盛大に鼻啜ってる人いたので


2日、3日で共通していたところ
ケンジと社長(薫の父)の演技
2015年と同じだったと思う、前回観たひとへのボーナスかな?

座り方、姿勢
足を投げ出すように座る、又は足を開いて座り、背を丸めて膝に肘をつく。
どちらも行儀が良いとは言えない姿勢だけど、浩介らしい

台本のめくり方
舞台上では台本は日記帳であるので、拡樹さんではなく浩介のめくり方。基本豪快にめくる、怒っているときは乱暴にめくる。
でも薫が読んでいるときにめくるときは、音を立てないように丁寧にページを繰っている。
感情が昂ったときは握りしめていて、読み終わる頃にはぐしゃぐしゃ

目線の使い方。姿勢がよくないので顔は伏せ気味だが、顔の上げ下げも表現の一部として計算されていた。


以下は違っていたところ、でも言ってしまえば表現ががらりと変わっていたので2日と3日の浩介は別人であり、全部が違っているとも言えると思う。

浩介の母親の件で薫と揉める場面、薫の本が浩介の本の上に重ねられて、それを浩介が読む場面
読む内容は薫の日記であるので、苛立ちながら読む。両日とも右手が膝に置かれ、苛立ちを表して指が膝を叩くように動く。
2日の方が忙しなく動いていた、読み方もかなり後の方まで(具体的には「お金ならあるじゃない」まで)イライラしていた。
3日は苛立っているけれど何とか自制しようと努力しているようで、指の動きも2日程ではなく、読み方も半ばあたりで苛立ちが消えていたと思う。

浩介が無心に徘徊する薫を「神々しいほど美しい」と評するのだけど、それが2日と3日とでは心情が違っているように感じた。
2日は知性を無くした者への畏敬であるように感じた、無垢となることで神に近い存在となった薫に仕える巫のような、狂信的な言い方だった。
3日は薫そのものへの深い愛を感じた、薫がそこに生きていることが奇跡であり美しいのだと

出勤する浩介に、薫が「かずやさん」と呼び掛けるところ(かずやさん=元彼)
2日は薫に訴えるように「やめてくれ」と言うのだけど、3日は思ったことがうっかりこぼれ落ちたような言い方だった。
2日は薫に聞こえていて、3日は薫には聞こえていないのではないか。
両日とも右手は膝の上で服ごと握りしめられていて、3日は特にそこで耐えられない程の苦しさを表していたように思う。

薫が姿を消す直前に「疲れた」と言う場面(拡樹さんはパンフレットで印象に残った台詞にこれを挙げていた)、これも2日と3日とで言い方が違っていた。
この台詞には心の疲れと身体の疲れ、両方含まれる、身体が疲れると心も弱くなるし
2日は精神的にいっぱいいっぱいになって、その気持ちがストレートに出たような
3日は心身ともに疲弊して、言ってはならないと自制していた言葉を堪えきれず溢してしまったような

最後の「愛してる」、2日は決意表明で、3日は薫に伝えていたように感じた。


2日の芝居は拡樹さんがやりやすいように演じていたと思う。
拡樹さんの演技は割と癖が強くて、鈴木拡樹節、みたいなモノがあるのだけど、それが強く出ていて、正直(あー、またこれかー)と思った。
翌日、演技プランの意図を理解して、ごめんなさいとなりました。

3日の芝居は緩急ついてて、本当に私の好みだった
拡樹さんぽさは残しつつ、芝居のコントロールの巧さが際立っていた。
とにかく上手いなー、という感じ

本当に3日の演技が好きなのに、心が動いたのは2日なのが何とも
もっと自然にコントロールできて、かつ自身の情動が乗せられるようになればいいのかな、分からないけど

また3年後くらいにお願いします。



パンフレットの写真がとても好き。
増田さんとの2ショは自然にカップルだし
指輪を見ているのはこの上なく優しげだし
朗読スタイルのは可愛いし
個人バストショットは格好いい

公式ブログの公演レポートの写真も好き
https://keshigomu1.exblog.jp/29763694/

増田さんがupして下さった演出の岡本さんとの3ショも良い
https://twitter.com/yuka_masuda/status/991978098076696581?s=19