推しの芝居がめっちゃ良かった話(リトショ2021感想)
私は鈴木拡樹さんのオタクです。
そしてリトショが、リトショでの推しの演技がとっても良かったので、単独で心置きなく書きまくる記事を作ることにしました。
なおリトショ総論記事はこちら
【感想文】リトルショップオブホラーズ(2021) - 観劇感想文
«歌唱について»
が、がんばったね~~~~~!!!!!
というのが正直な感想です。こんな感想、キャストとしては嬉しくないでしょうが、元々の歌唱力を知っていますので…つい…。本当にすごく頑張ったんだろうと思ったのです。
今回の初見は8/28夜で、拡樹さんは2公演目でした。
その時は「あ、去年より上手くなってる、音程あんまり外さないで歌えてる」といった感想でした。この時点で歌のお稽古相当頑張ったんだな、と思いました。
去年は歌を演技でなんとか繋ぎ止めてるような印象でしたが、今回は歌に演技を乗せていると感じました。
でも声が全然出ていなかった。いつも台詞はあんなに通るのになあ、やっぱり歌う発声と喋る発声は違うのかな、と思いました。
翌週(9/4昼)の観劇では、声は前週よりも出ていたけれど、音程は前よりも怪しくなっていました。この週は夜→昼の連続公演が2回だったから、疲れていたのかも。
音程か声量か、どちらかしか出来ないのなら音程取って欲しいなあと思いながら帰路に着きました。
で、休演2日挟んで9/7昼公演。
声は出てるし、音程もちゃんとしてる!勿論ミュージカル俳優のように豊かな声量とは言えないし、音域狭くて高音苦手なのは見て取れるんだけど、段違いに良くなってる。2日の間に一体何が…?とすら思いました。
他の役者さんの歌唱でも経験したことがありますが、やっぱり板の上が一番の成長機会なんですね。今までよりも一層歌に表情がつき、観ている側へ伝わってくる感情がよりダイレクトになっていました。
元々音程が不安定でも、そこで表現されるべき感情は伝わってくる歌い方でしたが、音程や声量が安定すれば受け取り側である観客のストレスが減りますから伝わりやすくなる筈です。それに歌が安定したことで演技も乗せやすくなったのかな?と感じました。つまり、相乗効果で演技も良くなっていたのです。
ああ、何故この素晴らしい推しの芝居が映像に残らないのでしょうか!(海外版権だからだよ)
ゲネ映像もないし…いえ、欲しいのはそんな初日頃の映像ではないのです。公開された舞台映像も前半のものなので早い。そこじゃない。最終週の推しの映像を!ください!!!
2019年秋に、2020年リトショの公演が発表されたとき、私は「えっ?ミュージカル?!役はとっても向いていそうだけど、東宝ミュ…だと…?」と思いがけない発表に大混乱しましたし、めちゃくちゃ歌が心配でした。
案の定、2020年時は「本人比ではかなり上手くなってるけども…(やっぱり下手)」と思いましたし、今回も2020年よりはずっと良くなっていると思いながらも、9月1週目までは推しが歌い出すと手に汗握る心持ちでした。
それが最終週の公演では、高音キツそう&誤魔化してるなあと感じる部分はあれど、「歌えていない」感が抜けましたし、歌を台詞と同じように扱うので、むしろ「今日はどんな表現になるのだろう」と楽しみになりました。
2幕後半は歌い上げ系の曲が多かったので、苦戦していたように感じました。音域が狭いの辛い。高音はレッスン次第である程度までは出せるようになる筈なので、レッスン続けて欲しいです。声量も同じく。
ただ、私はあの台詞の一部のような歌い方が失くなってしまうのは惜しいと思うので、バリバリのミュージカル歌唱は身に付けなくていいかなと思います。
歌唱がもう一、二段階上がったら、私は恐らく「拡樹さん演じる スリル・ミーの『私』が観たい」とツイートしまくってしまう気がします。(既にとっっっっっても!観たいのですが)是非「歌唱力は置いておくとして」の枕詞なしで、心置きなく呟かせて欲しいです。
«演技(芝居)について»
リトショの前の公演である刀ステ无伝から感じていたのですが、演技力上がってませんか?
演じている役が舞台上でより自然に居るように見えて、普通人間はあんなに表情筋動かさないので自然な訳はないのに、一体どうなっているんだろう?と、その演技に浸りながらも混乱してしまいます。
理由のひとつは、演技の癖が抜けたことだと思っています。以前の拡樹さんの演技は割と台詞回しや表現に癖があって、それは個性ではあるけれども当然ながら「自然さ」とは反するものでした。この点は裏を返せば個性の平均化とも言えるので賛否あると思いますが、他要因も絡んで演技力が向上した結果だと思いますし、人間から個性を消し去ることは不可能だと思っているので私は問題ないと考えています。(あと今の方向性の演技がそもそも私好みなので……)
でも絶対にそれだけじゃない、その理由だけでは説明できない存在感になっていると思います。2020年に比べて過剰さを抑えているから?一度演じた役だから?そんな表面的な理由で説明できないと感じました。そもそも私は観劇趣味ではなく鈴木拡樹オタクなので、俯瞰で舞台を観るというよりは、推しが出ていると推しがどんな演技をしているかを分析してしまう癖があります。推しが出演していなければ全体を俯瞰して観劇できるのですが…。拡樹さんの演じるシーモアを観るのではなく、拡樹さんがシーモアをどう演じているのか観に行く。観るのは役ではなく推し!という観劇ファンに怒られそうな視点での観劇なのに、舞台上にシーモアが存在していると思えました。
とはいえ推しの演技が完璧だというわけではなく、例えば稀に左足引いて立っちゃってたり(カテコでしてる立ち方)するのですが、そういうところはまだ向上の余地があるのだなと思えて今後が楽しみです。
«役作りについて»
今回は2020年に比べて挙動不審感が抑えられていたと感じました。かつ、気弱な感じは前回の方があったような気がします。なぜ変わったのか、憶測でしかありませんが、今回のリトショがシーモアとオードリーの関係性にフォーカスして見せようとしていたからではないかと思いました。恋愛ものとしては前回のシーモアはクセが強すぎる気はするんですよね…2020版の拡樹さんシーモアはキモさとオタク感が強くて面白いので、あれはあれで好きなのですけれど。
今回、最初からオードリーがシーモアに好意を持っているのが観客に判る演出になっていましたが、拡樹さんのシーモアはオードリーの好意に気付いていそうだなと感じました。「特別自分に優しい」くらいの感覚かもしれませんが、服選びのお誘いのところ「じゃあ今日は?!」に躊躇いがなかったりして、オードリーからの好意にそれほど疑問がなさそう。だからこそ「オードリーにオリンは相応しくない」→「オリンがいなくなれば良いのに」という願望がただオードリーの為だけではなく、シーモアの欲が混じっていて、そこをオードリーIIに付け込まれたのだなあと感じました。
自信がなくて植物オタクという属性はあれど、前回に比べてかなり普通の人として造形されていたように思います。コメディはキャラクターではなく台詞の応酬や芝居の間で表していくという方向で演技を構築していて、キャラクター性が既にコメディらしさのあった2020年との大きな違いだと思いました。(劇中映像は2020年を使いまわしているのでコメディタッチのキャラクター性がよく分かる)
シーモア単体として見たとき、三浦さんの演じるシーモアの「この人本当に自分が何も悪くないと思ってる」と気付いた時のぞわぞわくる感じ、ホラーです。怖い。近寄りたくない。理解できないものに対する恐怖を感じました。
拡樹さんのシーモアはそういった得体の知れなさはありません。何を考えて、どうしてそうなったのか、丁寧に表現されています。濃やかな表現は拡樹さんの持ち味を活かすものだと思いますし、ごく普通の人が些細な切欠で足を踏み外す様はこれはこれで怖い。ラストの「必ずあなたの行いの報いを」に向かって因果応報論が貫かれている。それぞれの役者の持ち味が活かされていて、よいダブルキャストだったなあと思います。
«印象に残ったところ»
全部だけどね?!
特に、という…絞ったけどいっぱいあります。
『Grow for me』の芝居パートは基本的にコミカルかわいい構成なのに、最後の「僕のために」の言い方が公演を重ねるにつれて、‘お願い’から諦念を含んだすがり付くような哀願に変わっていきました。スキッド・ロウの暮らしから抜け出したいけどどうせ無理、というなげやり感と、咲いてくれないと(花屋が潰れて)オードリーと一緒にいられないから咲いてくれないと困る、という願望が同時に感じられて好きでした。
『get it』(歌い出しの印象が強くて、曲名feed meだと思ってました…)は今回特に良かったと思っている場面です。オードリーIIの歌を聴いているうちに洗脳されていく、オードリーIIにマインドコントロールされる様がよく判る。最初の方、洗脳に掛かりそうになって「自分の思考が何かおかしい」と抵抗する様も、抵抗しきれず洗脳された狂乱の踊りも。ハッと我に帰って「殺していい人間なんていない!」と抗議する様は本来のシーモアが決して殺人をよしとするような人間ではないことがきちんと示されているし、オードリーがオリンに無碍に扱われているのを見てしまって(この場面、決して偶然ではなく、このことすらオードリーIIの策略のように見えました)オードリーIIの思うがままにコントロールされていく様も。
話変わるのですけど、この場面でシーモアが足を滑らせて転ぶ、という演技があまりにも上手すぎて本当に転んだようにしか見えない。毎回ほぼ同じところで足を滑らせていたから、演技…だよね…(余りにも自然なので不安)
シーモアはオリンを殺したいなんて思ったこと無かったのに、心の中にあった「オードリーの前からいなくなってほしい」という恋する者が恋敵に対して誰でも持ちうるような負の願望をオードリーIIに察知されて、ねじ曲げられて増幅させられてしまったのだと感じました。
その後の『Now』は歌と台詞の交じり具合が秀逸で、「ころせ」を1度普通の台詞のように言うのですけれど、それがすごく良いのです。ゾクゾクしました。精神が向こう側に行ってしまったような雰囲気なのに、迷いが強く感じられ、その分一生懸命自分に言い聞かせている感も強まっているように思いました。
『suddenly seymour』はキーが厳しいなと感じる曲のひとつではあるけれど、足りない部分を埋める演技が素晴らしく、シーモアが本当にオードリーを想っているのが伝わってきました。口説き文句ではなく本気でオードリーに「お化粧しなくてもいい」「過去は気にしない」と思っているし、声音がとても優しくて、観ている私にもなにか温かいものが流れてくるようでした。
そしてラストでオードリーを抱きしめる前にズボンで手を拭くところ。望外の喜びの高揚と、オードリーを真に「綺麗なもの」として見ているのだなあと感じられて、好きすぎる仕草です。何度でも見たい。
ムシュニクをオードリーIIに喰わせてしまう場面、嘘をつくときの緊張感の表現も良いけれど、ムシュニクがオードリーIIに頭を入れた瞬間から既に後悔に苛まれて泣きそうで、断末魔の悲鳴をバックに慟哭するシーモアからはムシュニクに対する愛情と、罪悪感と後悔と混乱が伝わってきて、次の場面の虚脱感にも繋がるよい演技だったなと思います。
オードリーをオードリーIIに与えてしまった翌朝の魂の抜け具合、そこから「フラフープより殖えまくる」で覚醒して、怒りに任せてオードリーIIを倒そうとする一連の感情の流れがとても分かりやすかったと思います。相変わらず瞳の演技がとても良かった。
以下、感想つらつら羅列します。
◦ダウンタウン(スキッド・ロウ)で花の様子を見ている場面、舐めているのは鉢植えの土。だけど首傾げてるのに肥料足すでもなく霧吹きするだけ…
◦『DaDoo』の「真っ暗!」がとても可愛い。語彙は死んだ。
◦オードリーIIの苗を売ってくれたの、喪黒福造だと思う。アメリカ人だから東アジア人の見分けつかなかったんだ、きっと。話の流れもかなり『笑ゥせぇるすまん』だし。
◦オードリーをオードリーIIの中へ入れる1拍前に、別れを惜しむようにオードリーの顔を見つめるの、心臓がぎゅっとなりました。切ない。
◦『get it』のラストでオードリーIIと頷き合うのかわいい。あれはシーモアがオードリーIIに同調してしまった、洗脳されてしまった表現だと思っているのだけど、そんなのどうでもいい位かわいい。
◦オリン臨終間際の「俺を殺す気か~~~~~♪」でビブラートに合わせて一緒にぶるぶるするシーモア、コメディ要素なのだけど面白いよりかわいいが勝ってる。
◦「きみのためにオードリー♪」から始まる歌唱、たぶん一番不安定だったけど、オードリーからの愛に確信が持てないシーモアの表現としてギリギリ成立して…………いややっぱりもうちょっと頑張ってください。
◦オードリーが「どんな貴方でもずっと好きでいる」と伝えてオードリーの愛に確信が持てたからやっとオードリーIIと決別する気になれた、うん、遅くない?と思いますが、そういえばオードリーがオリンと付き合ってる理由「稼ぎがいいの」だったな…仕方ないか…
◦オードリーがオードリーIIに喰われなかったとしたら、一体2人はどうなっていたんだろう?オードリーIIをあのままにして逃避行かなあ、シーモアがオードリーに真相を打ち明けない限り詰みな気はする。
◦オードリーIIがシーモアに「殖えまくるぜ?」って囁いたの絶対に確信犯、怒りを煽って自分から中に入らせる為だったよね、シーモアはもう人間調達してくれなそうだったし、用なしの餌係は餌に格下げされたのだ。
全て私の主観での感想です。正直なところ、偶然もしくは私の思い込みによりそう見えただけで、演じている側は意図していない部分も多々あると思います。ご承知おき下さい。
長いし読みにくい文章だったかと思います。読んで下さってありがとうございました。
【感想文】リトルショップオブホラーズ(2021)
2020年春、幕開けも遅れそして唐突に断ち切られた公演の続き…
シアタークリエ ミュージカル『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』
の、ような新しい物語でした。
観劇日:8/28夜、8/29昼、9/4昼、9/7昼夜、9/11昼
※ダブルですが6回観劇でシーモアは鈴木さん5三浦さん1。(推しが鈴木さんなので許して頂きたい)
オードリーは妃海さん3井上さん3です。
キャスト全員2020年より歌唱力も演技力も上がってて素晴らしかった。
あれ?ここの場面、2020でもこうだったかな?
マイ初日の8/28ソワレ(鈴木さん/妃海さん)を観劇した時、早々に違和感を覚えました。
シーモアがオードリーIIの名付を披露する場面、シーモアが「迷惑だった?」と聞きオードリーが「そんなことない」と返した後、見つめ合ってお互いにはっとする
え、こんな演出でした?いや私の記憶力ぽんこつだから覚えてないだけ?はっとするのシーモアだけじゃなかったっけ???少なくとも、この一呼吸の間の演出が印象的だったのは事実です。
ここでオードリーが物語の初めから、シーモアのことをそういう意味でかなり好き、という下地が敷かれていると感じました。シーモアだけがはっとするなら「シーモアはオードリーが好きだけど、オードリーはシーモアを(いい人だと思ってはいるが)好きな訳ではない」という印象になるけれど、お互いにはっとすると「互いに好意を抱いている」印象になります。
で、私の感覚でしかないのですが、2020は「(オードリーのことが好きな)シーモアの話」だったのが2021は「シーモアとオードリーの恋の話(話の主体はシーモア)」になっているように思いました。
特に妃海さんのオードリーは初見からシーモアが好き!なのがストレートに伝わってきて、恋の話という印象が強かったです。
楽で初めて下手に座ったら表情がしっかり確認できたのですけど、井上さんのオードリーも初っぱなから「シーモアに会えて嬉しい!」感が溢れてました。
この辺り、やっぱり演出変更してませんか???
演出変わった??な点その2は、サドゥンリー シーモア歌い終りで抱き締める前にキスしそうになる所です。これ、前回もあっ…た…?おずおず抱き締めてた覚えしかなくて、前からあったならごめんなさい。
このシーン差し込みで浮き上がるのはシーモアのヘタレさなんだけれども。なんでしないのよ?!という肩透かし感がすごい。(コロナだし無理、というメタな理由は置いておくとして)
多くのキャストが2020から続投のなか、ムシュニク役の阿部さんのみ新キャスト。実は岸さん→阿部さんのムシュニクも印象が違っていて。
ムシュニクは物語随一の「マトモな人」だと思うんだけど、岸さんのムシュニクはそこにスキッド・ロウの住人らしい妥協と、そしてお金スキー感があったと思います。対して阿部さんのムシュニクはとにかく父性が強い。阿部さんムシュニクだと店主と従業員というより父親と子供たち、という感じがしました。そしてお金は普通に好きだけど特別大好き!って訳ではなさそうだなと思いました。
ところで、リトショを観劇していて、自分の感覚とずれているなあと思う箇所がありまして。
シーモアが大口顧客シーヴァ家の葬儀の花の注文を忘れて怒られた後、オードリーが「ムシュニクさんはあなたに厳しすぎる」と言うんだけど、いや普通では…?と。何だろう、台詞にパワハラモラハラ感をそこまで感じないからかな?普通に怒られているようにしか見えず、そしてやらかした失敗からすれば、怒られるのは当たり前と思ってしまいます。(感情的に怒らず理性を持って諭すのが良い上司ではありましょうが)
それからナイトクラブ。私の持つイメージはデヴィ夫人が若い時働いていたような所だけど、スキッド・ロウなので格をかなーり落としてキャバクラかな?だとしても、水商売ってそこまで恥じるような過去ではない気がするのだが……でも1960年代のアメリカでは相当なヤバい職という認識だったのかも知れない。と無理矢理納得させています。
あと、シーモアのことを「ひょろ長い」と形容するんですよね。鈴木さんひょろいけど長くないし三浦さん長いけどそこまでひょろくなくない…?
毎回引っ掛かりながら観劇しました。
2020年はオードリーについて、その突飛な話し方とキャラクターに度肝を抜かれてしまい、深く受け止められていなかったのですが、今回2021年版を観劇していて、その自己評価の低さに共感しました。よく分かる。
私は自罰傾向はないのでオリンとは絶対に付き合わないけど、「素敵なひと」に自分は似合わない、と思ってしまうのはとても共感できます。共感したらいけないところですが。
この自己評価の低さに苦しんでいる、低所得層の一人の女性、というオードリーの立場の哀しみをよく表現されているなあと感じたのが井上さんのオードリー。
オードリー役のお二人がどのような役作りをされたのかは分かりませんが、私には妃海さんは相手との関係性からオードリーという役を紡いでいる感じで、井上さんはまずオードリーというキャラクターを確率させてから相手への反応を決めている感じに見えました。
「この反応をするならオードリーはこういう人」と「オードリーはこういう人だからこの反応をする」の違いです。実際はどちらもあっての役作りだと思います、印象がこうだったのです。
妃海さんはとにかく歌が上手いし、歩き方からオードリーとして可愛らしく作り込まれていて、形(所作)から観客に訴えるのが巧みだなあと思いました。何より恋の表現が手厚い!流石宝塚ご出身です。
井上さんは演技力が高い。2幕に入って「オリンに消えて欲しかった」と告白してからサドゥンリー シーモアに入るまでの苦悩の演技と、何より死に瀕しての演技ですね、涙が美しかったです。
正直、コミカルよりもシリアスの方が上手いと思いました。とはいえ、楽の「はいありがとうございまぁす!」は、かなり笑いましたが。それから、映像向いてそうだなあとも思いました。だって表情めちゃくちゃ良いのですもの。
でもでも妃海さんの死の場面もとってもいいんですよね!情感たっぷりで。どちらのオードリーも臨終場面は泣きそうになりました。素晴らしかったです。
オリンは2020年に引き続き、今回も登場しただけで拍手が起こっていました。すごい。そしてオリン オン ステージ!今回はコール&レスポンスができないので、アクション(オリン曰く「コール&レッツダンス」)と劇場入場時にレスポンス用の『運命のペーパー』を掲げる形になっていましたが、会場を十分楽しませてくれました。
石井さんは2幕締めのマーティンさんのセリフ以外、全部笑いを取りに来てると思う。私はスキップスニップさんがお気に入りです。シーモアが悩んでる場面の電話、相手が間違えてるんじゃなくてスニップ翁が聞き取れてないんだと思ってます。
あのシリアスな場面でオモシロ合いの手を成立させなきゃならないんだから大変だなあと思いました。
そしてラストのセリフを言うマーティンさんは不気味怖くて、ホラー感が良いです。芸が達者だー!
boy'sのお二人。幕前の客席あたためからオードリーIIの操作、様々な役回りと(おそらく)影コーラス、お疲れさまでした。お二人がいてこそ回った舞台です。
girl's(ロウズィーズ)の皆様。素晴らしいお歌の数々をありがとうございました。
最初から最後まで出ずっぱり歌いっぱなしで、やりがいはあったかもしれませんが大変だったと思います。
コメディ部分はロウズィーズの皆様がいないと成立しない箇所が多数でした。特にロネットのツッコミが無かったらどうなっていたことか!まりゑさんはTwitterでも共演者のツイートに一言ツッコミ入れていて、芯からツッコミ体質なんだなあと思いました。
オードリーII(閣下)については、2020年に単独でブログ書きましたので、そちらを参照下さい。
とりあえず私はリトショで一番カワイイのはオードリーIIだと思っています。
さて、ではシーモアですよ。イチ観客の感想なので、そういう見えかたもあるんだなあ位の広い心でお願いします。
嫌な予感がした人は引き返してくださいね!
三浦さんはスターだな!と思いました。シーモアの無責任さを、役者本人の持つ若さと圧倒的白い役オーラで純粋さに変換していると感じました。
三浦さんのシーモアって、多分自分が悪いとは全く思ってなさそう。ムシュニクに「僕はやっていない!」と訴えている場面、本当に「僕はやっていない=オリンがガスマスクで勝手に死んだ」と思っているように見えました。ムシュニクを喰わせる場面も、オードリーIIが咀嚼し始めてやっと自分が何をしたか自覚したような感じでしたし、その後も罪悪感より戸惑いの方を強く感じました。
なぜ悪いと思っていないのか→純粋だから操られてしまった、という役作りだと思うのですが、操られてしまうような純粋さは若くないと説得力が出ないので「今の」三浦さんならではかなあと思いました。(年齢が上がると純粋というより愚鈍に見えてしまいがち)
徹頭徹尾オードリーIIにその操られた被害者としてシーモアを演じている上に、白い役オーラがそれを補強しているので、多分人によってはシーモアとっても可哀想(報われていない)と感じるのではないでしょうか。
三浦さん、当然ながら歌が上手い。体格もいいし、東宝が推すの分かるな~!と思います。客も持ってますしね。
ところでヘアスプレーはリスケしないんでしょうか?観たいです。
対して鈴木さんのシーモアは犯した罪に自覚的です。ムシュニクに言う「僕はやっていない!」は咄嗟に出た言い訳に聞こえるし、ムシュニクをオードリーIIに入るよう唆している時も、自分の行動が何を引き起こすか分かっている。でもムシュニクを喰わせたことに罪悪感があり、後悔していて、なのでロウズィーズの歌う「いつかあなたの行いの報いを」という歌詞が鎖となってシーモアを締め上げていくのが見えるようでした。
鈴木さんの武器は演技力ですが、今回歌唱力も向上していて、さすがにグランドミュージカル級とは言えませんが、ちゃんと聞けるレベルにまで持ってきてくれました。足りない部分は演技力で丁寧に埋めていた印象です。それまでもどんどん良くなっていましたが、最後の週に入った辺りで急激に伸びて、私は2日間の休養の間に何があったのだ?!と混乱しました。喜ばしいです。
東宝さんに置かれましては、また何かミュージカルのお仕事持ってきて欲しいです。あとアルキメデスのリスケ、首を長くして待っています。
ダブルキャストもシングルキャストも録音音声の閣下も、本当に皆魅力的でした。
版権の関係で映像が残らないのが本当に惜しい!
公演が終わったら、もう観客の記憶の中にしか存在しない。生モノエンターテイメントの儚さを噛み締めています。
以下、蛇足ですが『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』という作品の歴史とエンディングの変遷を。全部ウィキ調べです。
1960年 オリジナル映画公開…①
1982年 ミュージカル化…②
1986年 ミュージカル版を映画化…③
で、①②③全てエンディングが違っており、③以降はミュージカル上演に際しては②or③どちらかのエンディングになっているそうです。
今回の東宝版は②のエンディングなので、ミュージカル映画を観た方や、③エンディングのミュージカル公演を観たことがある方はびっくりされたみたいですね。
③はハッピーエンドなので、そりゃあびっくりするよね、と思いました。
以上、蛇足でした。
閣下ボイスのオードリーⅡが大好き
リトル・ショップ・オブ・ホラーズ、コロナ禍で東京のみ一週間の上演になってしまいました。
私も中止回で払戻しになったチケットがあります。しかしこの状況だと、観られただけでも良かったと思わなければ、ですね。つらい!
そんな辛く悲しい状況ですが、閣下演じるオードリーⅡが、それはもう素晴らしく可愛く魅力に溢れていたよ!って話をしたいと思います。
オードリーⅡとは?などリトル・ショップ・オブ・ホラーズの基本的な設定は知っているものとして話を進めますので、知らない方はウィキペディア先生に聞いてください(丸投げ)
リトル・ショップ・オブ・ホラーズ - Wikipedia
※この記事はネタバレを盛大に含みます。
オードリーⅡは最初はシーモアが抱えている鉢植えの大きさから、最後は2m超えで人を丸飲みできる大きさまで育ちます。
形態は、①抱えられる程度の鉢植え、口(=花にあたる部分)は手を入れて動かすパペットタイプ
→②170cmくらい?口の開閉は多分腕、舌も動く。根を脚で表現する着ぐるみタイプ
→③花屋のセットを全体を覆う、動きは首(=茎にあたる部分)の向きと高さ、それと口の開閉で、ええと、動かしてるのは大道具さんかな?舞台セットタイプ
どのタイプのオードリーⅡも、花のフォルムの丸みが強く、また動きもどこか可愛らしい。
特に好きなのは②ver.でカーディガンを取りに戻ってきたオードリーを誤魔化すべく根を引っ込めて口を閉じてそっぽ向くような角度になるところ。胡座の脚で表されてる根が、腕を組んでいるように見えてかわいい。
あと③ver.でタイプライター打ってるシーモアに「腹へった!食わせろ!」って首がっしょんがっしょん動かすところ。幼児がお菓子の棚の前で駄々こねてるみたい。かわいい。
舞台映像verのプロモーション映像に映っていたのは①と②だけでした。
声は②に成長してから。
③は公式Instagramのアフタートーク映像の最後、カーテンコール場面が映っているのでそちらでちらっと見られます。大きさが分かる。
②の形態まで育って喋りだすと、オードリーⅡの魅力に溢れた個性がどどーん!と表れます。
もう、一人称『我輩』な時点でノックアウト。
閣下の声で一人称『我輩』、狙い過ぎだと思うのにあまりにも似合っていてずるい。オードリーⅡの一人称は我輩以外考えられない!と思ってしまう程。
ベースはやや低めで響きがあって、なおかつ少し高めに掠れるオードリーⅡボイス。台詞部分でも声に結構高低差があって表情豊か。割りと同情ひくようなことも言うし、唆すのもお手のもの。
閣下という偉大な悪魔の声帯をもつ悪魔の植物(のような地球外生命体)、それがオードリーⅡ。
台詞回しも好きです。これは掛け合いの間をコントロールしているであろうスタッフさんの功績も大きいかも。でもねえ、1センテンスの中での呼吸というか、区切り方が大変に私の好みなんです。
一番好きなのは、ムシュニクを食べてから一週間何も食べてない、食べさせろ!とシーモアと言い合いになり、ローストビーフで我慢しろ!とキレたシーモアへの返し「確かに、なにもないよりは、よい」です。すき!!!!!読点のような間延びのような、絶妙な間!刺さる!すき!!!!!!!(落ち着け)
しぶしぶ+ちょっと拗ねてる感が可愛いと思います。
ここだけではなく、とにかくなんだか台詞の言い方が可愛い。ちょっとワガママなんだけど憐れっぽく言ったり、媚びるような口調で唆したり。なるほど悪魔とは魅力的なものなのですね…
歌は、閣下なので当然ながら大変素晴らしいです。
『Get it』と『Suppertime』の2曲だけですが、名曲揃いのナンバーの中でも印象に残るし、歌詞が好きで。訳詞とてもいいです。
オードリーを騙して食べようとするところの歌詞、『お口に注いで~♪』ですよ、お口!おくちって言った!?また可愛い子ぶって!と大変ツボに刺さりました。
私はオードリーⅡがとても好きで、腹を減らして「くいものだ!食い物を寄越せ!ヒトの血と肉を食わせろ!」とシーモアを困らせているところですら、なんか可愛いと思っていた重度ぶり。
でもこれは③ver.のオードリーⅡが首(茎)しか動かなかったからです。映画のように蔓や根が腕のように動いていたら怖いと思っただろうと思います。
②ver.では根を動かしていたのですから本来は動くものなのでしょうけれど、③ver.の根は全く動かない。
つまり、今回の舞台のオードリーⅡは口の届く範囲でしか直接の脅威はなく、騙したり唆したりして口に入れさせてやっとヒトを餌にできる。
実は逃げるのは容易ですよね、側に行かなければいいのですから。
だから、本当に怖いのはオードリーⅡではなくて……
【感想文追記】 舞台サイコパス 4/27昼
2回目を観たら、1回目にいろいろと取りこぼしていたことが分かったので追記。
初見感想はこちら→https://oshigotoid.hatenadiary.jp/entry/2019/04/24/200713
この舞台はとにかく情報量が多いので、1回目の観劇時は処理が追い付かず最後ら辺は集中力が欠けていた模様。あとドミネーター起動しないことにかなり気を取られていた(笑)
哲学的ゾンビについて、狭義の意味と広義の意味とがあると気づきました。
正直、2つの意味を持たせるのはかなり分かりにくくなってしまうと思います、少なくとも私は分からなかった。
私は1回目に観たときは狭義の意味でしか捉えられていなかったので他の方の感想読んで「???」となっていました。
狭義の意味では、後藤田のように脳改造でシステマティックに反応を返しているだけで、普通の人間なら色相が濁るような場面でもクリアなまま作業ができる者。
善悪の判断や感情表現が本人の自由意思に拠らずマニュアルに従っているだけなので、例えば「空腹になったら食事をする」と「三島の指示に従い死体をばらまく」が善悪的には等価になっている。
広義の意味では、社会システムや他人の考えに盲目的に従う者。PSYCHO-PASSの世界に於いては特にシビュラシステムを絶対視してその判断や指示に疑問を持たない者。
三島が広義の意味で九泉を指して哲学的ゾンビと言っているのだけれど、私は先に「哲学的ゾンビとは後藤田のような者=脳改造によってシビュラシステムで犯罪係数が計測できない者」とインプットされてしまったので、九泉を指して哲学的ゾンビって言ってるのは単なる嫌味だと思ってました……「政府の犬」的な……
後藤田がシビュラが反応しないほど、三島の指示であれば非道なことも色相が安定した状態で行えるのに対して、九泉はシビュラの判断に従い母親を殺したことに無意識下であっても苦痛を感じ色相を濁らせている。この違いがあったので、私は後藤田と九泉がイコールにならず、初見時に九泉=哲学的ゾンビと認識できませんでした。
おそらくシビュラもやろうと思えば後藤田タイプの、本人がノンストレスの哲学的ゾンビが作れる筈なのに、わざわざ母親を殺す記憶を植え付けることでシビュラを絶対のものだと認識させるなんて隙がありすぎる。だから同じものではない、という認識でもありました。
でも今思えば単に九泉への施術時には、後藤田タイプの技術が開発されていなかったのかもしれない。
中国語の部屋がダブルミーニングなのも、こちらは分かりはするのだけれど、難しくないですか。私の頭が悪いのが悪いのか?そうか。
中国語の部屋=シビュラシステム廉価版
と理解しています。違ってたらどうしよう。
一般認知度が低い言葉に二重の意味を持たせるのは、例えば小説のように疑問を持ったら前のページに戻って内容を確かめられる、自分のペースで物語を進められるコンテンツなら構わないと思いますが、舞台のようにひたすら与えられる物語を受け取るコンテンツでは処理が追い付きません。
私は舞台作品は舞台上で表現されたものが全てと思っているので、どんなに面白い・好きだと思った作品でも戯曲が欲しいとは思わないのですが、今回は戯曲欲しいと思いました。どういう意味なのか分からない、自分の解釈に自信がもてないところが多くあったから。全員が複数回見られる訳じゃないんだから、私のような集中力の足りないバカでも一回で理解できるようにもう少し分かりやすくお願いしたいです。
嘉納について、ラストシーンで「隠していた計画を見つけてしまった」と自ら言っていたので、偶々知ってしまった、というのが正しかった。あとシビュラシステムが「電波通信障害を解除します」的なことを言っていたのでドミネーター起動はシビュラシステムによる反応。やっぱりシビュラが『嘉納の色相・犯罪係数判定は監視官認定に相応しいものと改竄する』と常に末端まで認識しているってことなんだろうな。
全てシビュラの手の内、壮大な実験の一環のようなので、嘉納や人工監視官育成計画(名称ちょっと自信ない)を発見したのは偶々ではなくてシビュラがわざと知らせたんだろうと思います。潜在犯には非人道的な行いをしてもいいんですから。本当ひどい。嘉納は自分の犯罪係数の改竄を知らなかったらヒューマニストに与したりしなかったはず。
九泉の記憶改竄について目白や嘉納が知り得たのもわざとだと思っています。それを知ったら九泉がどう振る舞うか。九泉はシビュラに従って母親を殺すような人間でなくて良かった、と思ったのでシビュラから不要判定くらいました。
犯罪係数オーバー300について。これは大量殺人や猟奇殺人をする可能性大という意味ではなく、シビュラシステムの崩壊に繋がる可能性大の為この数値なのだと思います。
シビュラの社会における信頼を著しく低下させ、現行の社会秩序の崩壊を招く者なのでオーバー300。シビュラにとっては大量殺人者と同等の危険人物、アニメではヘルメット事件時にシビュラシステムの信頼低下によってリンチが横行し結果大量の殺人が起きている。
九泉の母親について。九泉は「厳しかったけれど、自分のやることは何でも認めてくれた、犯罪を犯すような人物ではなかった」と言っていて、かつカウンセリングから3D化させたホロでは母親は「それでいいの」「あなたとシビュラの話」と訴えている。
なので、私は母親は実在していてエリミネーターで殺処分されている、但し撃ったのは九泉ではないと思っています。
優しくて犯罪を犯しそうにない母親をシビュラの判定に従って撃ったという幼少の頃からの記憶全て本来のものではない、という可能性ももちろんありますが、記憶全部塗り替えるより一部改竄の方が容易いと思うし、街中で過去を知る人に会う可能性を考えると全部塗り替えるのはリスクが高いと思ったので。
嘉納が九泉を殺そうとする理由を考えてみたんですが。
大城に殺して欲しいという気持ち、大城を殺してしまう理由、そこは分かる。シビュラの支配する社会は間違っているとテロリストになること、それによって己が潜在犯であったこと=シビュラシステムの正しさの証明となってしまうこと。それが嘉納の心を引き裂いていて、自分を止めて欲しいと思っている。時間切れ、というのは大城が自分を殺すことはないと悟ったからかなと思いました。
三島を殺すのに躊躇がないところをみると、ヒューマニストに手を貸したのは九泉に真実を教えて一緒にシビュラシステムから抜け出すのが目的で、単に利用しただけなのでしょう。でもライブ会場が電波暗室なのはシビュラがわざと作りだした状況で、つまり己の行動が全てシビュラの掌の中で躍っていたに過ぎないと分かったときは絶望しただろうな。それなら一人で死ねばいいのにとは思うけど。エリミネーターでは自殺できないのか?
それとも九泉に「お前とは違う」と同行を断られたから?一人でも逃げたいと思うほど前向きな欲望を嘉納からは感じなかったんだけどな。一緒に生きられないなら一緒に死にたかったの?そんな濃い関係性は見えなかったよ、それとも一人で死ぬのは寂しいから?そこまで弱いようにも見えない。
九泉に確実に自分を撃たせるため、というのが一番納得がいく解釈かなと思います。無抵抗の母親を撃ったのでなくて良かった、と告白した九泉では例え三係の仲間たちの仇であっても無抵抗では撃つのに躊躇するかもしれないと思ったから。この解釈だと九泉生き残っちゃうんですけどね……「ラストはどちらにも取れるようにした」とのことなので、それでもいいのかな。でも相討ちの方が美しい気がする。
ただラストシーンは九泉しか見ていないので(推しが舞台上にいると推し以外に目を向けるのが非常に困難になるタイプのオタクであるため)ライビュ観たらもっと納得できる解釈ができるのかも。
【ネタバレ有り感想文】「舞台 PSYCHO-PASS サイコパス Virtue and Vice 」4/21夜
舞台の正式名称が長い!(笑)
まだ何回か行くけれど取り合えず初見の印象を上げます。1回しか観ていないので覚え間違いはあるかと思います。
アニメは1期だけ見ました。
2回目観たらかなりの取りこぼしがあったので追記ブログ書きました→https://oshigotoid.hatenadiary.jp/entry/2019/04/29/143030
FCでチケット取ったら20日落とされて(落選すると思わなかった…)初観劇日が21日になりました。初見なのにかなり前方席だったので絶対見逃しあるし、拡樹さんばっかり見てましたので視野が狭い。後方席でも拡樹さん出てきたら拡樹さん見ますけど、もっと視界が広がってるので…初回は後方でもオペラ使わず見るようにしていますし。
なので他キャストさんの動向把握してないところいっぱいあります。もう開き直ってライビュで確認すればいいやと思ってる。
会場に入って席に着くとセットが確認できます。枠のみのコンテナが積みあがったようなセットに既にプロジェクションマッピングで映像が投影されていて、近未来ぽさが打ち出されていていいなと思いました。セットは一部可動式、コンテナの一つが移動する感じで四角が積みあがっている全体の印象はキープ。丸みのあるモノがほぼ無かったのは、統一することでシャープな印象を出したかったのかな?
セットは3階建て、3階は殆ど使わなかったけれど、四角が積みあがってる感じは2層より3層の方が出るので不要だったとは思わないです。
薄い幕を下ろしてのプロジェクションマッピングとセットに直接投影のプロジェクションマッピング、それからセットの一部に画面を組み込んで役者の演技をリアルタイムで映すという3種類の映像演出がありました。特にリアルタイム映写は見たことがなかったので面白かった!多用しすぎると舞台でやる意味…ってなりそうですが、アクセント的に使用していて良かったと思います。
アクションがかなり多いと思いました、ドミネーター使えない状況多すぎるような??メタ的理由で使えないのだろうと分かるのですが、ライブハウスレベルでもシビュラシステム使えないのはちょっと無理がないかなあと思ってしまいました。廃墟と研究施設はわかる。
2階部分・階段やセットの可動部分を使ってのアクションも多くてセットを生かしてるなあと思いました。それはそれとして、高所でのアクションなので怪我には気を付けて欲しいです。平地のアクションも一回転して受け身とかあって本当にアンサンブルさんすごい。
メインキャストのアクションも多くて皆さん大変そう。拡樹さん今回も汗だく。代謝良すぎるのかな?アクション量ももちろん多いですけれども。ラストシーン、わだっくまが全然汗かいてないから余計目立つ。
皆さん見えないところに痣あったり、テーピングしたりしているんでしょうね。大きな怪我なく全公演終えられますように。
ちょっと脱線しますが、前方席なのに暑かったんです。私は暑がりなので、割と薄着でした。(薄手のブラウス一枚。デニムパンツ、上着を膝上に置いていました)客席で動かない状態で暑いと感じたので、舞台上すごく暑いのでは?と思いました。公安局員はスーツだし、ヒューマニストはミリタリー系だし。
4月だと冷房は使えないんですかね。
音響がいまいち、でした。キャストマイクの音量が違うように聞こえる。キャストの声の通り方とかマイク位置とか、それはあるとは思うのですがそこは調整して欲しいです。あとセリフ入りのタイミングで音量上がりきってない時ありましたね…まだ慣れてないのでしょうか…頑張って欲しいです。
あとアクション時の打撃音が突然なくなるのは違和感があります。3ヵ所同時にアクションしてる時などにそうなってたんですが、えっと、手が足りないってことでしょうか…?それともセリフ入りのタイミングで無くすようにしてるとか?セリフ聞き取りに気を遣うなら打撃音段々小さくするとか、そういう方向でお願いしたいです。3秒前は豪快にガゴッ!ってしてたのが急に聞こえなくなると「んん?!」ってなるので。
でもやっぱり手が足りない…んですかね?それとも3ヵ所とも打撃音入れると煩すぎってことかな。
は!もしやライビュや円盤にしたときに画面に映ってない場所の打撃音聞こえるとおかしいからとか、そういうこと?!…いやでもそれは円盤にするときに加工できるよな…
とにかく気持ち悪かったので調整して欲しいです。
ストーリーは、面白いと思いました。
人工監視官アイデアは、九泉はともかく嘉納は数値改竄したことを教えなけば良かったのでは?とは思いました。
なので私は嘉納は自分の犯罪係数が操作されたものだとずっと知っていた、と解釈しています。
政府は犯罪係数改竄を知っている者と知らない者とで経過が変化するかデータを取っているのではないかなと。(つまり嘉納の他にも数値改竄して監視官になっている者がいる)
サイコパスの世界では自己のサイコパスを測ることができますよね?(アニメではそうだったはず)そして監視官である嘉納は公安局外に自由に出入りできるので、街頭測定に遭遇することはよくある、だとすればあの街の通信システム全体に『嘉納火炉は監視官に値するサイコパスの持ち主』と測定結果が出るようにされているはずです。もしシビュラシステム側でそれが出来るのであれば、嘉納が己の実際の犯罪係数を知る可能性はかなり低い。
もしくは嘉納は規定値以上の数値でも放置してよい、という設定にされているとか。でもどちらにしても嘉納個人を認識し、嘉納だけに通常と違う反応を返すように設定されていることになる訳で、ラストでエリミネーターが作動する以上はシビュラ側から特別扱いしているとは思えません。
(私が観劇した際はドミネーター動いてませんでしたけど、多分両方エリミネーターに変化して相討ちですよね???)
嘉納側からシビュラシステムを騙すというか、持っていれば数値を一定数下げるチップ(人体埋込み式)があったのではないかと。ラストは下げる数値を上回って犯罪係数が上昇したのではないかな、と。
勝手に設定詰めてしまった……
九泉は単純に植え付けた記憶が本来の人格と齟齬を起こしてストレスがかかって色相濁りがち+本来の人格が表に出てきているので犯罪係数上昇かな、と。記憶を疑うような素振りは無かったので記憶が薄れているのではないと思います。
頭痛と不眠を植え付けた記憶が剥がれる前兆とみることもできるけど、どちらかというと本来の人格が植え付けた記憶では抑えきれなくなっていると見る方が自然だと思っています。最後の「母親を殺してまでエリート街道を進むことを選ぶような人間じゃなくて良かった」と言っていること、井口、相田、蘭具を死なせたくないという意思があることからみて、元の人格は他人を犠牲にしてのし上がるタイプではないのだろうなあ。
『中国語の部屋』は簡易シビュラシステムでいいのかな?影響範囲がかなり限定されるミニタイプ。とりあえずニセ中国語の部屋の爆弾がものすごく眩しかったの辛かったです。九泉を見ようとするともれなく目つぶしされるドS仕様…多分ピンポイントで当たってしまう席だったんだと思いますが。
あ、『中国語の部屋』の影響でドミネーターが使えるようになったのでしょうか?だとするとシビュラシステムではないから嘉納の犯罪係数が高く出たということになりますね…ということは、嘉納のアイテム所持ではなくシビュラ側が嘉納を個人識別して特別扱いしてる方がしっくりくるか…
後藤田の設定を盛った割にはそれが生かされていなかったように思います。脳ゾンビ???で合ってますか…(私の記憶力は相当残念なので違っていそう)
後藤田をそれにする意味がストーリー上全くなかったように思うので、もしやアニメ3期で出て来たりするんです?とか思いました。もしもう出てるならごめんなさい、アニメ1期しか見てないんです…
OPで目白が脚を引きずっているのに、その後の場面では普通に出てきたので舞台がOPの時間軸よりも前だと分かる。また劇中に「ヘルメット事件」の話が出てくるのでアニメ1期より後と分かる。
(アニメ2期か劇場版か3部作か知らないんですが、どうやら「公安三係は壊滅している」という情報が出てくるらしいので、その時点よりは前)
OPとEDが同時間軸で劇中が過去というつくりは、この舞台作品がサイコパスプロジェクトの一部であるということを分かりやすく示しているなと思いました。
あのエンディングは嘉納にとってはまあ良かったなって思うんですが、九泉にとってはどうなんでしょうかね?そもそも何故嘉納は九泉を殺そうとしたんだろう。九泉が真実を抱えて生きていくにはシビュラシステムから逃れ続けなければならないし、再度偽りの記憶を植え付けられて実験体になるくらいならいま殺してあげた方がいいとか、そういう…?
私トラブル回だったので正しいエンディング知らないんですが、多分暗闇で両方エリミネーター作動して発射音と同時にドミネーターのライトが消える、だと思うんですが、だとすると両者とも生きてるか死んでるか分からないですね。私は相討ちで両方死んだと思ってますけれど。
執行官は皆死に方に生き様を見せた感じでしたね。カッコいいと言ってしまうのは倫理的に良くないかなと思うけれど、見せ場だった。全員自分の意思で選んで逝ったので思い残すことは無さそうだな…
大城は殺すより殺される方を選んだんだね、それはそうだわ。嘉納は他人に「自分を殺させる」なんて重いもの背負わせようとしたらダメだよ…まあそれだけしんどかったんだろうけれど。
衣裳!が!最高に格好良かった!!!全員ブラックスーツだけれど着こなしで個性出していて。フルオーダーで体格に合ってるから、より格好良い!
あれだけのアクション熟せるんだから、生地は見た目より伸縮性があるのかな。ブラックスーツでのアクション、心底格好良い(先刻から格好良いしか言っていない、語彙力は死んだ)
スーツ設定ありがとう!って思いました。アニメも公安はずっとスーツだもんね。
ちょっと良く分からないところはあるけれど、概ね満足。ストーリーが良かったからね!ハピエン厨なので、この話が好きかと言われるとちょっと困るんだけど、面白いかと聞かれたら面白いと答えられます。
ただ観劇1回だけだと脳内処理が追い付かない…己の頭の悪さが辛い…
感想文 舞台「どろろ」 3/8、3/10夜、3/14昼、3/16昼、3/17夜
舞台どろろ
観に行きました。
こちらは舞台感想文になります。アフタートーク回ばっかり行ってるけど、そちらの感想はありません。
また、記憶を頼りに書いていますので、セリフや演出に間違いがあるかもしれません。
※脚本演出に関して批判的です。ごめんなさい。それから、あくまで個人の感想です。
前提としまして、原作漫画はばんもんまで読了、2019版アニメは見ていますが3、4話は見逃しました。
よろしいでしょうか。
現在放映中のアニメの百鬼丸役が今回主演の鈴木拡樹さん、メインビジュアルもアニメ準拠なので、原作よりアニメを基にした舞台なのだろうと予想して観に行きました。
ビジュアルはどのキャラクターも完全にアニメ準拠でしたね。
アニメがまだ途中までしか進んでいませんので、後半のストーリーがアニメと同じようになるのかは不明です。ただアニメが放映されているところまでは、ストーリーは多少構成は変えていましたがアニメと同じでした。
HPのスタッフ欄を見て頂くと分かるのですが、脚本協力としてアニメの脚本家さんがずらり。観劇後に、原作を基にした舞台ではなく、アニメの2.5次元舞台として作成されたのだという意味かなと思いました。
一幕(前半)はアニメの醍醐の巻(第一話)と妖刀の巻(第四話)中心に、寿海の巻(第三話)とばんもんの巻(第十一話・十二話)は後半に組み入れられていました。
もちろんアニメそのままではなくて、澪のエピソードは百鬼丸の過去としてさらりと語られるだけで澪とどろろは会っていないし、どろろの過去はどろろの「おっかちゃんは死んだ」「死ぬ間際までおいらのことを気にかけてくれた」といったセリフのみ、という編集はあります。
舞台ではテーマは家族、特に百鬼丸の、というところがブレずに表現されているのですが、その分どろろ周りは削られた感じはあると思います。ただ、時間の制約を考えると仕方がないのかな…エピソードがギュウギュウに詰まってる感がありました。
対して、百鬼丸・多宝丸・醍醐景光・縫の方の家族のエピソードはメインとして扱われているので、かなり深く掘り下げられているように感じました。
これがアニメもそうなのか、舞台オリジナルなのかは今の時点では分かりませんが、アニメもこの流れなら、もう少し百鬼丸側のフォローが欲しいなと思いました。(詳しくは後述)
賽の目の三郎太のエピソードがかなりオリジナル色が強いというか、原作とは全く違っているようなので、これはアニメも同じようになるのでは?と思っています。
寿海と百鬼丸の関係もとても感動的だし(「これを何と言うか知っている。ははうえ」はずるい!)、田之介とお須志、助六とおっ母、三郎太とおっ母、すべてその家族の物語が泣かせてくるのですが、メインである醍醐一家に絞って感じたことなど。
「鬼か、人か」はアニメからのキーワードでもある訳ですが、百鬼丸のことだけじゃないなあと思いました。(浦沢直樹先生のMONSTARを思い出しましたね…)
本当の鬼はだれ?
鬼とは何?
百鬼丸は生贄(人柱)で、では、自分の意に反して生贄となったものは諾々と贄とならなければならないのか?
自分が犠牲になれば多くの人が助かるのだから、と死ぬ人は称賛されるけれど、だからといって犠牲になるのは嫌だ、という人を責められるものなのか。
多数の幸福の為に少数を犠牲にすることは赦されることなのか。
現在の倫理感からすると、間違っている。と言い切ってしまえるのかも知れません。
でも死ぬ危機がすぐ目の前にあるとしたら。少数を切り捨てれば多数が助かるのだとしたら。
その部分を掘り下げていたので、景光がただの悪者ではなくなっていたし、縫の方・多宝丸の心の機微が観客と同調しやすく(感情移入しやすく)なっているように思いました。
翻って、百鬼丸は最初は人形みたいだし、ようやく感情が見えるようになったと思ったら人ならざるモノ(鬼)に堕ちかけてるような苛烈さが前面に出てくるしで、感情移入しにくいし、そこを狙っているのはわかるのですが百鬼丸が身体を取り戻そうとすることが正しいと思えなくなるような描写が多いように思いました。
特に育ての親である寿海が身体を取り戻すことを否定することが、最も「間違っている」感をつよくするように思います。弟からの否定、母からの否定は領主としての立場からで、まあ単にたまたま血が繋がっているだけで、数多の領民を救う『生贄の子供』を良しとするかどうかでしかない、理の面からの否定です。けれど寿海は、それこそ百鬼丸の親であり家族であり、その視点からの否定はかなり強く響きました。情の面からの否定だったからです。
大人が理からも情からも否定してくるので、そこに対抗する百鬼丸の「俺のものだから、全部取り返す」という主張がこどもが癇癪起こしているように見えてしまう…味方するのがどろろだけなので、より幼稚な正義を振りかざしているだけのように見えてしまう気がします。
どろろだけが味方をする、というのはバディ物のファクターとしてよくあるものだし、大人の都合に縛られず本質を突いているという意味もあると思います。
でも、それだけだと弱いというか、心情が百鬼丸側に戻らないように思いました。私だけかもしれませんが、道理は百鬼丸の方にあるのは顕かな筈なのに「醍醐が豊かな土地であること」という時点での物語なので、豊かな土地であることが前提になってしまい「有るモノを奪う」のが百鬼丸のように見えてしまって、奪われたモノを取り返しているだけ、という百鬼丸の正しさが頭では理解できているのに感情が百鬼丸の側に行かないのです。
ここの辺りが、私が「もっと百鬼丸の側の心情を丁寧に描いて欲しい」と思った部分です。自分の観劇後の感想が「早くアニメで見たいなあ、きっと丁寧に書いてくれるよねえ」だったの、本当に残念に思います。
それと、百鬼丸が強いことも百鬼丸に同情しにくい要因ではないかと思いました。
例えが卑近で申し訳ないけれど、最低時給で働いていて預貯金が全くない人が1万を盗まれたと聞くのと、不労所得で暮らしてる総資産30億の人が1万を盗まれたと聞くのでは、同情の度合いは変わります。しかもその1万が貧しくて給食費を払えない子どもの食費に使われたと聞いたら?
盗まれたのが最低時給で働く人だったら、盗んだ100万はちゃんと返して食費は他の方法で賄うのが本筋でしょうと考えられますが、総資産30億の人だったら、それくらいあげてしまってもよいのでは?と思ってしまいそうです。もちろん総資産30億の人にも1万を取り返す権利はありますし、悪いのは盗んだ人です。
…何を書いているのか分からなくなってきました(笑)、とにかく百鬼丸は感情移入しにくい上に同情すらしにくい。だからこそもっと丁寧に描いて欲しかったなと思います。そうしたら、百鬼丸の側にも添うことができたと思うのです。寄り添いたかったんです、私は。
まあ正直、話のスピードがとにかく速いので、感情移入する前に場面転換してしまって、醍醐一家側にもそこまで寄り添えなかったのですが…それでも其々のキャラクターの心情が「わかる」のでまだましでした。百鬼丸は本当に分からないですね、なぜ取り返したいのかが分かれば良かったのですが、とにかく「自分のものだから」でしたので…
先程の例でいうと、最低時給の人なら「自分のだし、それがないと電気ガス水道払えない」という理由になるので「それは困るね!絶対取り返そう!」って気持ちになるけれども、総資産3兆の人は「自分のなので」だけだから「ああ、まあ、そりゃそうですね」程度にしかならない、という違いです。
しかも無くても特に困っていなさそう。
琵琶丸が「奪われたモノは身体だけじゃないと思っているのかもしれない」と言いますが、特に明示はされないし、場面としてはミオが殺されるところでしたが、ミオが殺されたのは別に鬼神の影響ではないし、百鬼丸が五体満足だったら防げた訳でもないですよね。
そんなわけで、アニメでもっときちんと百鬼丸側の事情・心情を描いて欲しいなと思っています。(無理やりまとめる)
脚本があまりにもアニメのダイジェストでしかなかったので、エピソード詰めすぎて駆け足だなあ、ちょっと説明不足じゃないかなあと感じる部分は多々ありました。でもキャスティングされたキャラクター全部出そうと思うと、ああなってしまうのかな…
演出に関しては、音楽の扱いが雑だったのは気になりました。曲自体はいいのですが、唐突だし繰り返しが多すぎると思います。
暗転が多いのでは?というお客さんの意見があったのか、東京公演途中から暗転部分が目つぶしに変わりました。そういうことじゃないと思います。目が大変にしんどかったです。
ダンスでの表現は、私は好きでした。川の流れの表現は特に美しかったと思います。
OP後のどろろ登場前の領民たちの踊り、その後どろろをボコる男がにこやかにダンスに参加しているの面白いしカワイイので好きなところです。
狐火(ばんもんにいる妖)や鵺(鵺と劇中では一言も言っていない気がしますが)の表現も私は演劇的で良かったと思います。鵺はよく絡まらないなと思いながら見ていました。そしたら東京楽で三郎太の足に絡まってしまって、転んでしまうのではないかと見ていて血の気引きました。終盤だったので絡ませたままで最後まで行きましたが、本当に怪我に繋がらなくて良かったです。
以下、各キャラクターおよびキャストさんの感想を。長さバラバラで申し訳ないです…
田之介:影山達也さん
個人的には公演期間中の伸びが一番大きかった人だと思います。分かりやすい部分では、殺陣がかなり良くなっていました。スピードが速くなっていて、妖刀似蛭の扱い手としての説得力が増していました。
演技もよくなっていて、似蛭を呼ぶときの恍惚感は後半とても良かったと思います。
素の、良き兄である部分と、似蛭に憑りつかれて「人ではない」部分とのメリハリが大事な役だし、そこがやりがいのある役だと思います。人である田之介と人ではなくなってしまった田之介がきちんと地続きであるという説得力を持って演じられているように感じました。 人が人でなくなる、というのは後半の三郎太の百鬼丸への「そうか(お前は)人じゃあないか」というセリフとも絡んで伏線になる部分なので、しっかり演じてくださった分、作品に通底する「鬼か人か」のテーマが浮かび上がってきたように思います。
助六:田村升吾さん
滑舌がよくてセリフが聞き取りやすかったです。緩急がつくともっといいなあ。いや十分上手いですけど。最近の若い俳優さんみんな上手いですよね。
唯一の「親としあわせに暮らす子ども」なので、幸せになって欲しいです。百鬼丸が身体取り戻したら天災がわんさかやってくるかもしれないけど(台無しな推測)、多分あそこ朝倉領だから大丈夫!
三郎太:健人さん
殺陣うまい(知ってた)芝居うまい(知ってた)私にとっては安心感を持って観られる役者さんのひとりです。
寿海の回想をぶった切る「話は終わったか」、唐突すぎて笑えて来るレベルでした。ここに限らず、話がぎゅうぎゅうに詰まっているせいで余韻がなさすぎでした。
三郎太の「そうか、お前は人じゃあ、ないか」も恐らくキーワードとなるべきセリフなのに、めっちゃ流されてる感。とにかく時間なさすぎで、その中で大事にしたのが『家族』だったので、それ以外は本当に流されがち…
それでも演技の巧みさで人の弱さと、弱さ故に人ならざるモノになってしまう三郎太を演じられておりました。流石です。
後方席だと胸元の傷は全く見えませんでした。着物の合わせの問題もありますが、もうちょっと何とかならなかったかな…見えなくてもいいという判断だったのかも。
琵琶丸:赤塚篤紀さん
私の推しキャラ、琵琶丸さん。アニメでも無双ですが、舞台でも強キャラでした。満足です(笑)
ナレーションと僧侶の声当てもされていて、まあなんと聞き取りやすい声と滑舌の良さ。声音も変えておられて、分かりやすかったです。
白コンタクトは視界悪くなりそうだし、常に腰曲げておかないとならないし、杖と琵琶を常に持っていなくてはならないし、制約多すぎて大変。なのに殺陣が強く見えて素晴らしかった。ちゃんと腰曲げて殺陣していて、難しそうでした。
推しキャラを素敵に演じてくださって本当にどうもありがとうございます。
寿海:児島功一さん
寿海パ…いや寿海ママ。寿海と百鬼丸のエピソードももう少し丁寧でも良かったんじゃないかな…。「手足ではなく、もっと別のものを与えるべきだった」的なセリフがありますが、いや手足も必要だろ…と思ってしまいました。「別のもの」が何なのか示されていないので推察になりますが「人のこころ」かな?でもあの流れで人の心と言われると、人の心とは自己犠牲精神のことですか?と言いたくなってしまいます。
とにかく、その「別のもの」と手足は対立軸ではないのでは?と。そして寿海の愛情はきちんと百鬼丸に届いていますし。
百鬼丸も寿海の前では少し幼く見えました、愛情を疑わない家族に甘えている感じでとても良かったです。
そしてぎゅうぎゅう詰めの煽りをくらって、最期に百鬼丸を助けに行く場面が唐突すぎる。「あの子を鬼にした責任を」と言われましても。手足を与えたこと=鬼にした、という風に捉えてしまうのですが、その解釈で合っているんでしょうかね…?
児島さんの演技が本当に愛情深かったので、そこから百鬼丸を思って発せられる言葉はとてもパワーがありました。
縫の方:大湖せしるさん
美しい…!目が潰れるんじゃないかと思いました美しすぎて。顔も所作も舞も美しい。はーいいもの見た。と全観客が思ったに違いないと確信しています。
演技は安定していてブレもなく、景光や多宝丸の芝居をきっちり支えていたように思います。
胸を突いた後、下手での醍醐一家のやり取り後に、上手の百鬼丸と寿海のやりとりの間中ずっと下手の寝台の中っていうのが妙にこう…何とかならなかったのか。
あと、百鬼丸の名前はいつ知ったんでしょうか。初見時に「ぼうや…いえ百鬼丸」って言われた瞬間に脳内ハテナで埋まりました。何度観ても分からなかった…
キャラクタービジュアルが発表されたとき、あまりにも唐橋さんの面影がなくて5度見した。
原作よりずっと美味しい役その①。なんだかすごく領民思いのいい領主になっている…
縫の方を愛していて(あんな美しい奥方なら大事にしますよね)、後継ぎたる多宝丸に期待をかけているごく普通の父親。百鬼丸は己の罪のように見えていたのか、それとも培ったものを奪っていく災厄でしかなかったのか。劇中では殆どの時間百鬼丸を災厄扱いなのに、最後の最後で己の罪を認め、全てを失くして尚生きねばならない慟哭で全部持っていったずるい。大変いい場面でしたが、本当にずるい。
唐橋さんの演技は日替わり。その日によってセリフのトーンや間が変わり、ほんの少しの差異でそのセリフや動作に込められた感情が違って見えました。こちらが受け取る印象が変わるので、何度も観劇した身としては楽しかったです。
これは芝居の受け手であった多宝丸役の有澤さんにはとても勉強になったのではないかなあと思います。若いうちにそういうの経験できるととてもいいですよね。
多宝丸:有澤樟太郎さん
脚なっが!腰ほっそ!体形が日本人離れしすぎていて袴が…なんだか違和感…すごい高い位置に腰板がある…!
原作よりずっと美味しい役その②。2019年版アニメも原作より美味しいキャラになっているので、アニメ準拠の舞台で美味しい役なのは道理ですね。袴がヒョウ柄なのってアニメもでしたっけ?
西田さんはお客連れてくる役者さんにちゃんと美味しい役を振るので、そこはとても評価できるところだなと思います。
殺陣スピードが本番重ねるうちに上がっていって、公演後半のラストの百鬼丸との一騎打ちは本当に凄かった。演技も良かったです、特筆できなくて申し訳ないのですが、あの父母と絡む演技で格落ちしなかったのは凄いと思います。
キャラクターの心情が追いやすいし、出番も多いし、死ぬ役は嫌!とかでなければファンは楽しかっただろうなあと思います。
かわいい!かわいいかわいいかわいい!大きな瞳、くるくる変わる表情。アニメと同じ特徴を持ったどろろ。
殺陣あり、早替えあり(ミオも北原さんですよね…?ちがう??)でお疲れさまです。声の通りがよくて、かつトーンや喋り方もアニメに寄せていたのかな?もう少し強弱がつくと良かったかな。ってこれ田村さんのところでも書きましたね?こどもの役だと抑揚つけにくいのかな?大人っぽく聞こえてしまうとか。肉眼で表情が見えない距離だと、声って本当に大事だなあと思います。声というか、声の演技。
舞台上での存在感があって、とても良かったです。ひとくくりにしたら良くないなと思いますが、最近のアイドル出の女優さんはお上手な方が多いので、観る前から安心感があったし、予想を裏切らない出来でした。そして何より可愛かった!
百鬼丸:鈴木拡樹さん
一体何を観たんだろう。と、今でも思っています。凄かった。
存在感がすごくあったと思うのですが、まあ推しであるのでファン以外から見てどうだったのか不明です。
初見では後方からオペラグラス無しで観劇したのですが、表情分からないとやっぱりセリフがないのは厳しかったですね。まばたきしていないのも勿論分かりません。つまり得られる情報が限られすぎていて、上手い下手以前の問題に感じてしまいました。多分拡樹さんのことを一切知らない人が見たとして、上手いと思わないだろうと感じたのです。下手だとも思わないと思いますが。
動きでの人工物感は後方からでも認識できました。首の動かし方は文楽の人形のようでしたし、脚の動かし方も似蛭戦で傷ついた状態、二幕で寿海に代わりの脚を欲しがるところなど、自然とそうなっているように見えました。
初見以降は前列で観たり双眼鏡使用して観たりしましたので、大分情報を取り込めました。それに公演を重ねるに連れて、存在感の強さがどんどん大きくなっていったように思います。台詞なしで表情も殆ど変わらないという条件の下でも、こちらに伝わってくるものが増えたように感じました。
自分の感じたものの言語化が難しくて、全く伝えられない自信があるのですが(笑)、脱皮したような、また一段上がったように感じました。使える札が増えたというよりは、札がクラスチェンジした感じ。つ、つたわらなーい!
今回衣装が薄手で着込むタイプでもなかったので体つきがよく分かったのですが、なんかすごく男の人の身体になったなと思いました。背中と腰回り特に。あとウィッグ良かった!すごく馴染んでいたし、色味も綺麗でした。ビジュアル大事。
殺陣が大量で大量で大量でしたが、体を取り戻す各々の段階で、また心の有り様で変わっていっていたので、飽きずに見ることができました。でも傷だらけでしたね…本番中のアクシデントでの顔の怪我は怖かったです。目の近くでしたし。
似蛭を膝に挟んで奪うアクションがありましたが、挟む方の膝裏に傷が付いていて、さもありなんでした。他の演目でも怪我することはあるのでしょうが、今回は露出部分が多いので怪我するとすぐ分かる…
全体的に、アンサンブル含め、役者の力量で脚本の穴を塞いでいたように思います。役者さんは本当に良かった。なのでちょっと勿体ないなあという気持ちです。
感想文 『スリル・ミー』 1/5 16:00回
いつの話をしているんだという感じですが、せっかく書いたので公開します。
8割以上1月上旬に書いていたのですが、書き切る前に繁忙期に突入してしまい、2ヶ月経ってしまいました。遅筆とかいうレベルではない。
なんと公式HPがホリプロチケット内のみだったので、時間が経ちすぎて削除されてしまいました…
では、以下より感想文です。
前回公演で評判聞いてはいたのですが、観てはいなかったスリル・ミーを観に行きました。
キャストが成河さん(上手いと知っている)と福士誠治さん(上手いと知っている)だったので一歩踏み出せたところはあります。ミュージカルは嫌いではないのですが、あまり観ないので、キャストがよく分からなくて誰を見たらいいの?ってなっていたので。
成河さん:『私』
福士さん:『彼』
の二人劇。そこへ生ピアノ演奏が添ってくる。二人の関係性を描き出すストーリー。
事前情報をあまり入れないで行ったので(『私』と『彼』が同性愛関係なことは知っていましたが)、ラストで驚きました。でも納得もしました。
話を知っていても面白いと思います、その場合は見える景色が違っていそうです。
ある事件を通して描かれる、『私』と『彼』の関係。
一見、一方的に『彼』が『私』を支配しているように見えるが実は…というラストの場面が見せ場。
スリル・ミーを観るのが初めてで、他のキャストさんがどう演じておられるのか、演出がどこまで影響しているのか分からないのですが、役作りの自由度が高そうだなあと思いました。『私』と『彼』の関係性において破綻がなければ、役の性格が多少変わっても良いのではないか。
私が観劇しました成河さん・福士さんコンビだと身長差がかなりありましたが、体格差が殆ど無いコンビだったら、それだけでも印象が変わってきそうです。
ニーチェの超人思想がキーワードとして出てきますが、別にニーチェの超人思想がどんなものか分からなくても大丈夫でした。中二病的な「自分は凡百の人々とは違う、選ばれた人間だ」と思っている、という程度の認識で十分でした。哲学者に怒られそう。
実際にあった誘拐殺人事件を元に書かれた戯曲で、元となった事件を起こした2人も超人思想の持ち主で、若く、知力が高かったようです。その割にはお粗末な犯罪計画で、それがこの戯曲の鍵でもあります。
なぜ『私』は犯罪が露呈してしまう危険があるようなことをしたのか。その真相を告白するとき、『私』が『彼』に執着しているのを利用して『彼』が『私』を支配しているかに見えた関係が逆転して、『私』が『彼』を手に入れる。その瞬間のやり取りを見せる舞台だと思いました。
それから、「スリル・ミー」という言葉。最初はスリルが欲しい、と言っているのが『彼』なので、『彼』の言葉かと思ってしまいますが、実は「スリル・ミー」と何度も歌っているのは『私』だし、『彼』も『私』対して何度も「それが欲しいんだろう?」と言っています。「それ」=彼の愛かと思ったけれど、そのセリフが出てくる前のやり取りからすると「スリル」の方がしっくりくるように思います。
もう一回観ていろいろ確かめたい!
では、以下キャストさんの感想を。
成河さん
上手かったですね!流石です。現在(53歳)と犯行時(19歳)が何度も入れ替わるのですが、姿勢・口調・声色できっちり演じ分けていました。
成河さんの『私』は頭はいいけれど、おどおどしていて、友達いなくて、スクールカースト最下層っぽい。『彼』への執着がとにかく強くて、『彼』に自分を見てもらうためなら何でもするという徹底ぶり。
私は愛情ではなく執着心を強く感じました。『彼』を手に入れるためにわざとバレるようにしたのだ、と告白するところ、狂気を孕んだ表情がとても良かったです。
前方下手端だったので、その時の表情が良く見えて、あんまり素晴らしくて見入ってしまいました。代わりにその場面の福士さんの表情が一切見えないのですけども。前方上手端からもう一度見たいです、その時『彼』がどんな表情をしていたのか、とても気になります。
この場面、『私』が『彼』にこの告白をしたのは、現実にあったことなのだろうか?と考えてしまいました。19歳のときの話は、全て53歳の『私』の回想なので、もしかしたら、あの時『彼』が怯え、怖がり、焦り、無理矢理強がっている姿をただ見ていただけかもしれない。事実とは違うことを『私』は事実にしてしまえる。唯一その時共にあった『彼』はもういないのだから。
こう考えてしまったのは、告げない方が恐ろしいなと思ってしまったからです。何も告げずに、『彼』と過ごす一生を手入れる方が怖いし、成河さんが演じる『私』はそういう執念を持っていそうだと感じました。
炎のようにいつか燃え尽きる熱さではなく、水のように相手の全てを浸食していくような、気付くとひやりと冷たく感じる執念です。
福士誠治さん
すごく格好良かったです。身長あって肩幅あって脚長いのでスーツが素晴らしく似合っていました。もちろん演技も素晴らしかったです。
福士さんの『彼』はSo Cooooool!なカリスマ。
スクールカースト最上位で自分以外は下等民って思っていそう。チャラさが全くなかったので、取り巻きとはつるんでるというよりは勝手に群がってくるイメージ。
『私』も勝手に群がってくるうちの1人なのだけれど、他とは違って頭がいいし自分の命令をよく聞くので使い勝手がよくて傍に置いている感じがしました。情は一切なかったな。もしかしたら、『私』の告白を聞いて「やられた」と思ってから、『私』に対して何かしらの感情は沸いたかもしれない。でも劇中の殆どの時間、『彼』にとって『私』は使える駒でしかなかったように思います。
『私』に対して上位であるように見せながら実は関係をコントロールされている受動的な役なので、演じるのがなかなか難しいのではないかな?と思いました。
『私』と『彼』の関係は常にどちらが上位か争っているような、どちらが相手を「手に入れる」のか、支配することができるのか闘っているような、そんな関係に思いました。
きっと他のキャストさんによっては、歪んだ愛情で繋がっているような関係になったり、求める愛情の種類が違ってすれ違っていたりするんでしょう。
他のキャストさんでも観たくなるし、同じキャストさんでも座席位置によって見えてくるものが違うのではないかなと思いました。ハマる人がいるの、とてもよく分かります。次回また公演があったら、今度は組違いで何度か観たいなと思いました。