感想文 少年社中『MAPS』

6/2昼、6/10夜の2回観ました。いつの話だ。書くの遅い。ごめんなさい。

 

公式HP↓

www.shachu.com

 

 テーマ分かりやすい、情報量多いけど何をしているのかはきちんと整理されていて分かる、膨らんだ話が最後に向かって収斂していく気持ちよさ、なのに「…どこか理解できてない気がする」謎の観劇でした。
情報が多すぎて、脳内で整理ついてないのかもしれない。頭よくなりたい。

 

 

HPのあらすじ、なにか違う気がする。
もしくは私の記憶がおかしいのかも。台本は買っていません。


とりあえず、私の主観によるMAPSのあらすじは…


『これは、3枚の地図をめぐる物語』
一枚目の地図を持つのは「冒険家」
前にも一緒に楽園を目指した仲間たちを集めて、楽園を目指す冒険に出る。
そこへ現れる前の船長、ライア。前の航海で仲間を捨てて船を下りた彼に対する仲間たちの態度は厳しい。
冒険家はライアも一緒に冒険したい、と皆を説得する。
「実は、楽園に辿り着いたんだ。今度は皆と一緒に行きたい」ライアの告白でまた皆で冒険の旅をすることになった。
でも、ライアの持ってきた楽園の地図は、実は昔冒険家が夢想して書いた偽物の地図。
冒険家とライアはそれを皆に隠して旅を続ける。
激しい嵐の晩、死ぬと思ったライアは仲間たちに地図が偽物であることを告白してしまう。
だが嵐は止んだ。
残ったのは…壊れた船と絶望。


二枚目の地図を持つのは「伊能忠敬
老いた彼のもとへ、ある日昔家を出ていった妻が帰ってくる。「貴方は本当はしたい事があるんじゃないですか?」
日ノ本の地図をつくりたい。妻と共に夢を叶える為に旅立つ。
そこへ息子が忠敬を連れ戻そうと追いかけてきた。「お母さんは死んだじゃありませんか」
妻の死を思い出した忠敬。しかし日ノ本の地図を作る為の旅を止めるつもりはなかった。そんな父に、息子は問う。
「お父さんは、なぜ地図を作りたいんです?」
その訳とは…


三枚目の地図を持つのは「漫画家」
既に連載を複数抱えている売れっ子漫画家。新連載のオファーを受け、伊能忠敬の話を書きたい!と思いつく。彼の脳内に溢れてくるイメージ。だが伊能忠敬の話はボツになってしまう。
新しく、楽園を目指す冒険家の話が漫画家の脳内を駆け巡る。
(=冒険家の話と伊能忠敬の話は、漫画家の想像として絡んでくる)
自分がおかしいのではないかと思った漫画家は、カウンセラーと定期的に会い、自分と向き合おうとする。
「感情が、フラットなんです」
そこへある日、ファンと名乗る少女がアシスタント希望でやってくる。
アシスタント希望なら作品を見せてくれ、と言った漫画家に、彼女が差し出したのは、地図だった。


「漫画家」の話がメイン。漫画家の創造した世界が「冒険家」と「伊能忠敬」の世界。

 


漫画家=冒険家=伊能忠敬という構成で、

冒険家は夢見た世界=楽園へ漕ぎだそうとする者であり、
漫画家は楽園にいる者であり、
伊能忠敬は楽園にいた者であり、かつ新しい夢へと漕ぎだそうとする者でもある。


漫画家のカウンセラーが「喜怒哀楽の喜と楽は似ているから、喜を抜いて恐れを入れる」と提案
「怒哀楽は現在に対する感情だが、恐れは未来に対する感情」という提示

この説明からすると、
快楽至上主義者/パーフェクトグラフィティケーション は“楽”
永遠なる怖れ/インフィニティアフリード は“恐”
哀しみの奴隷/ザ・スレイブサッドネス は“哀”
を表しているのだと思う。


ここからすると、冒険家のところにまずパーフェクトグラフィティケーションが現れ、不安要素が出てきたところ(ライアの持つ楽園の地図が偽物だと知る)でインフィニティアフリードが出てくる、というのは夢を追う人の心理としてはとてもよくあるのではないか。

最初は希望に満ちていて、往々にして絶対に成せるという根拠のない思い込み(楽天的な希望)が心を支配している。けれど一度「上手くいかないのではないか」という恐れに取りつかれると「夢を諦める」方向へと向かってしまうこともある。

この葛藤がパーフェクトグラフィティケーションとインフィニティアフリードとの闘いという形で表されていて、感情の可視化が面白い。

 

伊能の下にはザ・スレイブサッドネスが現れる。はじめ彼女を亡くなった妻の哀しみだと思っていたが、実は彼女は妻を亡くした伊能自身の哀しみ。

だから妻がいる時は出てこない。妻がいれば哀しくないから。

いちばん始めの登場場面で、伊能は夢を思い出せない。妻が促して、「そうだった」と二人で旅立つ。伊能の「日本地図をつくる」という夢は妻と共にあったから、妻が死んで、その哀しみを忘れるために「妻は他の男をつくって出て行った」という虚構をつくりあげたときに、一緒に忘れてしまったのだろうと思った。

だから、妻との大事な思い出を思い出したときに、哀しみを乗り越えて新しい夢に向かって進めるようになった。

 


『楽園はそれぞれ違う』
漫画家の楽園は、一見有名漫画家になること、のように見えるけれど、おそらく「漫画で食べていけるようになること=プロの漫画家になること」

同じようで微妙に違うように思う。

伊能忠敬の楽園は、「妻と共にあること」
そして、新しい夢は日ノ本の国の地図を作ること。だけど、それも妻が与えてくれたもの。
これは、楽園は次の楽園への旅の始まり、ということを示しているのかもしれない。

冒険家の楽園は、「皆と冒険すること」
一人では意味がなくて、皆と。皆とでないと意味がない。
(この「皆と」の部分が、観客に「毛利さんの話ではないのか」と印象付けるキーでもあると思う)

 

『みんながいたから、僕は僕になれた』
自分は何者なのか。
自分の価値は自分で決められるけど、社会での位置づけは他の人との関わりで決まる。

この言葉は、場面的にもみんながいたからやってこられた、という意味だと思うけれど、それだけではなくて、自分の価値を認めてくれる他者がいたからこそ、という意味にも取れる。

冒険家=漫画家なので、プロであろうとすれば特に、評価はあくまで他者が決めるもの。「みんな」は仲間のことだけではなく、漫画家の作品を評価してくれる読者のことでもあるのではないかと思った。

 


『あなたのファンです』
これは「fan」と「fun」で、言葉遊びでもあり劇中のミスリードでもある。

「喜び」と「怒り」が同じであるということの意味が2回の観劇では分からなかった。
「怒り」の名前がマイレボリューションで“自分への”怒りだから?転化すると喜び/楽しさに変わるのだろうか…
この作品で表される喜怒哀楽+恐は自分の中での葛藤であって、それは外へ向けて発散される感情とは少し違うのかもしれない。
(fun、翻訳としては「楽しい」じゃないかなと思うが、パーフェクトグラフィティケーションがいるので「喜び」と判じた)

漫画家の感情である「fun」、最後にアシスタント希望で訪れる「fan」
言葉遊びだけど、もし、クリエイターにとって「fan」が「fun」をもたらす存在になれるなら、いちfanとしてはすごく嬉しいなと思う。

 


夢見た世界で成功すること。それは嬉しいけれど、悲しいし、怒りもわいてくるし、でも楽しい。
いつかまた何もかも投げ出して逃げたくなるときがくる。
それでもこの楽園を選ぶ。
これが漫画家が最後の場面で自分の感情たちに対する宣言だった。
楽園を目指す物語の終着点。自己肯定の物語だと思う。


最後まで漫画家の名前は分からなくて、「先生」としか呼ばれていない。
最後の場面で名前を呼ぶけれど、その名前は聞こえないように演出されている。
漫画家≒毛利さん、という意見多いし、それはそういった面もあると思うけれど、私が観て受けた印象はそんなに単純ではなくて。
クリエイターとして成功した人や成功を夢見る人、クリエイターだけではなくて、どんな夢であれ、夢を叶えた人/叶えようとしている人すべてに当てはまるのではないかと思う。
だから
「これは あなたの物語」
なのだ。