推しの芝居がめっちゃ良かった話(リトショ2021感想)

私は鈴木拡樹さんのオタクです。

そしてリトショが、リトショでの推しの演技がとっても良かったので、単独で心置きなく書きまくる記事を作ることにしました。

 

なおリトショ総論記事はこちら

【感想文】リトルショップオブホラーズ(2021) - 観劇感想文

 

 

«歌唱について»

が、がんばったね~~~~~!!!!!

というのが正直な感想です。こんな感想、キャストとしては嬉しくないでしょうが、元々の歌唱力を知っていますので…つい…。本当にすごく頑張ったんだろうと思ったのです。

今回の初見は8/28夜で、拡樹さんは2公演目でした。

その時は「あ、去年より上手くなってる、音程あんまり外さないで歌えてる」といった感想でした。この時点で歌のお稽古相当頑張ったんだな、と思いました。

去年は歌を演技でなんとか繋ぎ止めてるような印象でしたが、今回は歌に演技を乗せていると感じました。

でも声が全然出ていなかった。いつも台詞はあんなに通るのになあ、やっぱり歌う発声と喋る発声は違うのかな、と思いました。

 

翌週(9/4昼)の観劇では、声は前週よりも出ていたけれど、音程は前よりも怪しくなっていました。この週は夜→昼の連続公演が2回だったから、疲れていたのかも。

音程か声量か、どちらかしか出来ないのなら音程取って欲しいなあと思いながら帰路に着きました。

 

で、休演2日挟んで9/7昼公演。

声は出てるし、音程もちゃんとしてる!勿論ミュージカル俳優のように豊かな声量とは言えないし、音域狭くて高音苦手なのは見て取れるんだけど、段違いに良くなってる。2日の間に一体何が…?とすら思いました。

他の役者さんの歌唱でも経験したことがありますが、やっぱり板の上が一番の成長機会なんですね。今までよりも一層歌に表情がつき、観ている側へ伝わってくる感情がよりダイレクトになっていました。

元々音程が不安定でも、そこで表現されるべき感情は伝わってくる歌い方でしたが、音程や声量が安定すれば受け取り側である観客のストレスが減りますから伝わりやすくなる筈です。それに歌が安定したことで演技も乗せやすくなったのかな?と感じました。つまり、相乗効果で演技も良くなっていたのです。

 

ああ、何故この素晴らしい推しの芝居が映像に残らないのでしょうか!(海外版権だからだよ)

ゲネ映像もないし…いえ、欲しいのはそんな初日頃の映像ではないのです。公開された舞台映像も前半のものなので早い。そこじゃない。最終週の推しの映像を!ください!!!

 

2019年秋に、2020年リトショの公演が発表されたとき、私は「えっ?ミュージカル?!役はとっても向いていそうだけど、東宝ミュ…だと…?」と思いがけない発表に大混乱しましたし、めちゃくちゃ歌が心配でした。

案の定、2020年時は「本人比ではかなり上手くなってるけども…(やっぱり下手)」と思いましたし、今回も2020年よりはずっと良くなっていると思いながらも、9月1週目までは推しが歌い出すと手に汗握る心持ちでした。

それが最終週の公演では、高音キツそう&誤魔化してるなあと感じる部分はあれど、「歌えていない」感が抜けましたし、歌を台詞と同じように扱うので、むしろ「今日はどんな表現になるのだろう」と楽しみになりました。

 

2幕後半は歌い上げ系の曲が多かったので、苦戦していたように感じました。音域が狭いの辛い。高音はレッスン次第である程度までは出せるようになる筈なので、レッスン続けて欲しいです。声量も同じく。

ただ、私はあの台詞の一部のような歌い方が失くなってしまうのは惜しいと思うので、バリバリのミュージカル歌唱は身に付けなくていいかなと思います。

歌唱がもう一、二段階上がったら、私は恐らく「拡樹さん演じる スリル・ミーの『私』が観たい」とツイートしまくってしまう気がします。(既にとっっっっっても!観たいのですが)是非「歌唱力は置いておくとして」の枕詞なしで、心置きなく呟かせて欲しいです。

 

 

«演技(芝居)について»

リトショの前の公演である刀ステ无伝から感じていたのですが、演技力上がってませんか?

演じている役が舞台上でより自然に居るように見えて、普通人間はあんなに表情筋動かさないので自然な訳はないのに、一体どうなっているんだろう?と、その演技に浸りながらも混乱してしまいます。

理由のひとつは、演技の癖が抜けたことだと思っています。以前の拡樹さんの演技は割と台詞回しや表現に癖があって、それは個性ではあるけれども当然ながら「自然さ」とは反するものでした。この点は裏を返せば個性の平均化とも言えるので賛否あると思いますが、他要因も絡んで演技力が向上した結果だと思いますし、人間から個性を消し去ることは不可能だと思っているので私は問題ないと考えています。(あと今の方向性の演技がそもそも私好みなので……)

でも絶対にそれだけじゃない、その理由だけでは説明できない存在感になっていると思います。2020年に比べて過剰さを抑えているから?一度演じた役だから?そんな表面的な理由で説明できないと感じました。そもそも私は観劇趣味ではなく鈴木拡樹オタクなので、俯瞰で舞台を観るというよりは、推しが出ていると推しがどんな演技をしているかを分析してしまう癖があります。推しが出演していなければ全体を俯瞰して観劇できるのですが…。拡樹さんの演じるシーモアを観るのではなく、拡樹さんがシーモアをどう演じているのか観に行く。観るのは役ではなく推し!という観劇ファンに怒られそうな視点での観劇なのに、舞台上にシーモアが存在していると思えました。

とはいえ推しの演技が完璧だというわけではなく、例えば稀に左足引いて立っちゃってたり(カテコでしてる立ち方)するのですが、そういうところはまだ向上の余地があるのだなと思えて今後が楽しみです。

 

 

«役作りについて»

今回は2020年に比べて挙動不審感が抑えられていたと感じました。かつ、気弱な感じは前回の方があったような気がします。なぜ変わったのか、憶測でしかありませんが、今回のリトショがシーモアとオードリーの関係性にフォーカスして見せようとしていたからではないかと思いました。恋愛ものとしては前回のシーモアはクセが強すぎる気はするんですよね…2020版の拡樹さんシーモアはキモさとオタク感が強くて面白いので、あれはあれで好きなのですけれど。

今回、最初からオードリーがシーモアに好意を持っているのが観客に判る演出になっていましたが、拡樹さんのシーモアはオードリーの好意に気付いていそうだなと感じました。「特別自分に優しい」くらいの感覚かもしれませんが、服選びのお誘いのところ「じゃあ今日は?!」に躊躇いがなかったりして、オードリーからの好意にそれほど疑問がなさそう。だからこそ「オードリーにオリンは相応しくない」→「オリンがいなくなれば良いのに」という願望がただオードリーの為だけではなく、シーモアの欲が混じっていて、そこをオードリーIIに付け込まれたのだなあと感じました。

自信がなくて植物オタクという属性はあれど、前回に比べてかなり普通の人として造形されていたように思います。コメディはキャラクターではなく台詞の応酬や芝居の間で表していくという方向で演技を構築していて、キャラクター性が既にコメディらしさのあった2020年との大きな違いだと思いました。(劇中映像は2020年を使いまわしているのでコメディタッチのキャラクター性がよく分かる)

 

シーモア単体として見たとき、三浦さんの演じるシーモアの「この人本当に自分が何も悪くないと思ってる」と気付いた時のぞわぞわくる感じ、ホラーです。怖い。近寄りたくない。理解できないものに対する恐怖を感じました。

拡樹さんのシーモアはそういった得体の知れなさはありません。何を考えて、どうしてそうなったのか、丁寧に表現されています。濃やかな表現は拡樹さんの持ち味を活かすものだと思いますし、ごく普通の人が些細な切欠で足を踏み外す様はこれはこれで怖い。ラストの「必ずあなたの行いの報いを」に向かって因果応報論が貫かれている。それぞれの役者の持ち味が活かされていて、よいダブルキャストだったなあと思います。

 

 

«印象に残ったところ»

全部だけどね?!

特に、という…絞ったけどいっぱいあります。

 

『Grow for me』の芝居パートは基本的にコミカルかわいい構成なのに、最後の「僕のために」の言い方が公演を重ねるにつれて、‘お願い’から諦念を含んだすがり付くような哀願に変わっていきました。スキッド・ロウの暮らしから抜け出したいけどどうせ無理、というなげやり感と、咲いてくれないと(花屋が潰れて)オードリーと一緒にいられないから咲いてくれないと困る、という願望が同時に感じられて好きでした。

 

『get it』(歌い出しの印象が強くて、曲名feed meだと思ってました…)は今回特に良かったと思っている場面です。オードリーIIの歌を聴いているうちに洗脳されていく、オードリーIIにマインドコントロールされる様がよく判る。最初の方、洗脳に掛かりそうになって「自分の思考が何かおかしい」と抵抗する様も、抵抗しきれず洗脳された狂乱の踊りも。ハッと我に帰って「殺していい人間なんていない!」と抗議する様は本来のシーモアが決して殺人をよしとするような人間ではないことがきちんと示されているし、オードリーがオリンに無碍に扱われているのを見てしまって(この場面、決して偶然ではなく、このことすらオードリーIIの策略のように見えました)オードリーIIの思うがままにコントロールされていく様も。
話変わるのですけど、この場面でシーモアが足を滑らせて転ぶ、という演技があまりにも上手すぎて本当に転んだようにしか見えない。毎回ほぼ同じところで足を滑らせていたから、演技…だよね…(余りにも自然なので不安)
シーモアはオリンを殺したいなんて思ったこと無かったのに、心の中にあった「オードリーの前からいなくなってほしい」という恋する者が恋敵に対して誰でも持ちうるような負の願望をオードリーIIに察知されて、ねじ曲げられて増幅させられてしまったのだと感じました。

 

その後の『Now』は歌と台詞の交じり具合が秀逸で、「ころせ」を1度普通の台詞のように言うのですけれど、それがすごく良いのです。ゾクゾクしました。精神が向こう側に行ってしまったような雰囲気なのに、迷いが強く感じられ、その分一生懸命自分に言い聞かせている感も強まっているように思いました。

 

『suddenly seymour』はキーが厳しいなと感じる曲のひとつではあるけれど、足りない部分を埋める演技が素晴らしく、シーモアが本当にオードリーを想っているのが伝わってきました。口説き文句ではなく本気でオードリーに「お化粧しなくてもいい」「過去は気にしない」と思っているし、声音がとても優しくて、観ている私にもなにか温かいものが流れてくるようでした。

そしてラストでオードリーを抱きしめる前にズボンで手を拭くところ。望外の喜びの高揚と、オードリーを真に「綺麗なもの」として見ているのだなあと感じられて、好きすぎる仕草です。何度でも見たい。

 

ムシュニクをオードリーIIに喰わせてしまう場面、嘘をつくときの緊張感の表現も良いけれど、ムシュニクがオードリーIIに頭を入れた瞬間から既に後悔に苛まれて泣きそうで、断末魔の悲鳴をバックに慟哭するシーモアからはムシュニクに対する愛情と、罪悪感と後悔と混乱が伝わってきて、次の場面の虚脱感にも繋がるよい演技だったなと思います。

 

オードリーをオードリーIIに与えてしまった翌朝の魂の抜け具合、そこから「フラフープより殖えまくる」で覚醒して、怒りに任せてオードリーIIを倒そうとする一連の感情の流れがとても分かりやすかったと思います。相変わらず瞳の演技がとても良かった。

 

 

以下、感想つらつら羅列します。

ダウンタウン(スキッド・ロウ)で花の様子を見ている場面、舐めているのは鉢植えの土。だけど首傾げてるのに肥料足すでもなく霧吹きするだけ…

◦『DaDoo』の「真っ暗!」がとても可愛い。語彙は死んだ。
◦オードリーIIの苗を売ってくれたの、喪黒福造だと思う。アメリカ人だから東アジア人の見分けつかなかったんだ、きっと。話の流れもかなり『笑ゥせぇるすまん』だし。
◦オードリーをオードリーIIの中へ入れる1拍前に、別れを惜しむようにオードリーの顔を見つめるの、心臓がぎゅっとなりました。切ない。
◦『get it』のラストでオードリーIIと頷き合うのかわいい。あれはシーモアがオードリーIIに同調してしまった、洗脳されてしまった表現だと思っているのだけど、そんなのどうでもいい位かわいい。

◦オリン臨終間際の「俺を殺す気か~~~~~♪」でビブラートに合わせて一緒にぶるぶるするシーモア、コメディ要素なのだけど面白いよりかわいいが勝ってる。

◦「きみのためにオードリー♪」から始まる歌唱、たぶん一番不安定だったけど、オードリーからの愛に確信が持てないシーモアの表現としてギリギリ成立して…………いややっぱりもうちょっと頑張ってください。

◦オードリーが「どんな貴方でもずっと好きでいる」と伝えてオードリーの愛に確信が持てたからやっとオードリーIIと決別する気になれた、うん、遅くない?と思いますが、そういえばオードリーがオリンと付き合ってる理由「稼ぎがいいの」だったな…仕方ないか…

◦オードリーがオードリーIIに喰われなかったとしたら、一体2人はどうなっていたんだろう?オードリーIIをあのままにして逃避行かなあ、シーモアがオードリーに真相を打ち明けない限り詰みな気はする。

◦オードリーIIがシーモアに「殖えまくるぜ?」って囁いたの絶対に確信犯、怒りを煽って自分から中に入らせる為だったよね、シーモアはもう人間調達してくれなそうだったし、用なしの餌係は餌に格下げされたのだ。

 

全て私の主観での感想です。正直なところ、偶然もしくは私の思い込みによりそう見えただけで、演じている側は意図していない部分も多々あると思います。ご承知おき下さい。

長いし読みにくい文章だったかと思います。読んで下さってありがとうございました。